もう一つの「神さまの話」の多彩さ
〈評者〉森 一郎
本書は、イメージあふれる装幀を次々に手がけている長尾優氏の三冊目のエッセイ集である。文体は、静謐でありながら情感に富み、音楽的である。二〇二三~二五年度の『福音と世界』に連載された三六編がまとめられ、通読できるようになった。
成立事情からしてもちろんどの章から読み始めてもよいが、本書には一貫したモチーフがある。「まえがき」にある通り、〈より大きな神〉を訊ねる道行きである。地上で力をふるう既成宗教によって祭り上げられている信仰対象を〈より小さな神〉とあえて呼び、それに比べて、個人の魂の奥底にひっそり隠れ潜んでいる無力このうえない存在を〈より大きな神〉と逆説的に名づけることから、本書は出発する。その信念ゆえに正統派からは異端者、背教者呼ばわりされ、神をなくした者との烙印を押された人びとが抱いてきた〈私の神〉の観念の数々を、著者は愛惜をこめて詳らかにしている。
全三六章で紹介される信念の人びとの多彩さには目を瞠るものがあり、彼らに注がれる著者のまなざしは等しく慈しみに満ちている。破門の哲学者スピノザ。二〇世紀のユダヤ人哲学者、ヨーナス、アーレント、レヴィナス。『白痴』でキリストを描こうとしたドストエフスキー。聖なるものを追い求めたドイツ詩人、リルケ、ヘルダーリン。このあたりまでは定番と言えなくもないが、ヘルダーリンの魂の同伴者ズゼッテ・ゴンタルトに一章を捧げているのには唸らされる。王宮の水溜めに放り込まれた預言者エレミヤを救ったエチオピア人宦官エベド・メレクが、精神の闇に沈んだヘルダーリンの面倒を長年見た指物職人エルンスト・ツィンマーに比せられるのにも、ハッとさせられる。
『悲愴』を遺した晩年のチャイコフスキーがスピノザを愛読していたというのも、発見的である。前田(のちの神谷)美恵子との愛に生きようとして夭折した美学者野村一彦。岡倉天心と深い交流のあったインドの女性詩人プリヤンバダ・デーヴィー。彼らの魂の内奥には神との対話があった。
シャーロット、エミリ、アンのブロンデ三姉妹。イギリス作家トマス・ハーディ、アメリカ詩人エミリ・ディキンスン、ユダヤ作家アイザック・シンガー、黒人女性作家アリス・ウォーカー、アイヌ伝承者知里幸恵、アメリカ先住民チーフ・シアトル。荻原碌山、九鬼周造、木下順二、辻邦生、山本周五郎、雨宮雅子。大読書家の引き出しの多さに驚かされる。
最終章では、アウシュヴィッツで犠牲となり、四〇年後に日記が刊行されたユダヤ人女性エティ・ヒレスムが取り上げられる。ナチスドイツ占領下のオランダに生き、強制収容所に送られるという、ぞっとする惨事のただ中にあっても、エティが「人生は美しい」と言うことができたのは、「私の内にある小さな神の欠片」を助けなければ、という決意ゆえだった。「私の一人の心の井戸の中に隠れ潜んでいる内在する神」──ここに、〈より大きな神〉を訊ねる道行きはクライマックスを迎える。それは同時に、第三章のリルケ論へ立ち戻る道行きでもある。「限りなく内面化された神の概念」の変奏曲を奏でる本書は、リルケ没後百周年に出るべくして出た、もう一つの「神さまの話」である。













