祈りの保育の背後にある「子ども性」への賛美
〈評者〉大豆生田啓友
私と石橋先生との出会いは、私が幼稚園で保育者をしていた三〇年以上前にまでさかのぼるのです。その後、私が大学の教員になってからも、キリスト教保育連盟の研修委員としてご一緒させていただき、とても親しくさせていただきました。その当初の出会いの頃から、石橋先生の保育実践は私の常識をはるかに超えたものでした。
例えば、幼児との礼拝に関して、子どもの声や、笑い、子どもとのやりとりを大切にしたものでした。当時の私の知っているキリスト教保育の礼拝は、子どもを静かにさせて話を聞かせる統制的なスタイルが多い中で、驚愕し、またワクワクしたことを覚えています。しかし、この考え方は、「日本の幼児教育の父」とも言われ、現代のわが国の幼児教育・保育の源流ともなっている倉橋惣三(一八八二―一九五五)の宗教教育論に通じるとずっと考えてきました。倉橋は、若いころ、内村鑑三との接点からその聖書研究会に出ていたことが、彼の宗教教育論につながっていたと言えるでしょう。その日曜学校論では、フレーベルの幼児教育論も背景にしながら、幼児の本性を阻害しないものでありたいと述べています。また、「いつものお定まりのお話しに欠伸をさせるよりは、広やかな野へ連れ出して、草の上に花の陰に鳥の音楽に、神の喜びを讃えしめた方が、如何に児童の為に活々した宗教教育が出来るかと思う」とも述べているのです。さらに、その宗教教育は、「子供に対する深き熱き関心」であるとし、それは「教師その人の感化」だと言います。倉橋の宗教教育論は、石橋先生の実践にも通じることがわかります。
本書においても、そうした石橋先生の一貫した保育の姿勢が見えてきます。石橋先生は子どもの遊びを徹底して大切にしているだけではなく、いっさい禁止をせず、先生そのものも子どものように一緒に本気で遊ぶのです。子どもは園長には殴ったり蹴ったりしてもよいと書かれていますが、思わず笑ってしまいました(普通の専門性ではありえない)。しかし、こうした子どもの「遊び」や「子どもらしさ」を大切にするだけではなく、大人である石橋先生自身も「遊び性」や「子ども性」にあふれているのです。実は、人のウェルビーイング(幸せな状態にあること)を考える際、この子どもらしさの特性や遊びが持っている特徴は、子どもだけではなく大人にとっても大切だと考えられているのです。つまり、何かにワクワクと夢中になること、楽しさや充実感があること、不思議さを感じること、修正可能な目的を生み出し試行錯誤(探求)できること、ルール通りではなくはみ出して考えられること、想像性や創造性がはたらくこと等々。こうした「遊び性」や「子ども性」は、乳幼児にとって大切なだけではなく、生涯にわたる人のウェルビーイングにとっても大切な要素となるのではないかと考えられます。石橋先生の保育論、あるいは牧師としてのお仕事における幼児と共にある「祈り」の視点には、子どもおよび子ども性への賛美を感じるのです。一読されることをお勧めします。













