イエスの語りかけに重なる信仰理解への応答
〈評者〉佐原光児
「わたしは疑いながら信じています」との一文で始まるキリスト教入門書は、新鮮だ。
本書は、長く聖書科教員としてキリスト教学校に勤めながら、教会の代務者も務める著者が、50のテーマ(問いや呟き)を掲げて持論を展開していく。テーマには、「いまさら神なんて人間に必要なのか?」や「教会は世の中の何に役立っているのか?」など、クリスチャンをドキッとさせるものがある。また、恋愛や不倫などパートナーシップに関わるものや、セクシュアリティ、災害や疫病、戦争、救いや永遠の命など、テーマは多岐に渡っている。
各テーマは、著者の探究心に因るものだろうが、読んで感じたのは、その背後にある「対話」の存在である。それは率直な、そして時には我々を試す中高生からの問いかけで始まったり、また、本を読んだ後の内省や、心を許せる仲間との雑談、さらには意見を異にする人との激論だったかもしれない。それらは対面で、時にはオンライン上で交わされたであろう。そうした問いや対話が、しっかりとした学びに基づいて、分かりやすい言葉で表現されている。
わたしは、これまで3つのキリスト教学校に勤め、高校生と大学生、そして同僚からの問いに放り込まれてきたが、本書は、そうしたキリスト教学校や教会、特に若者を相手にする人にとって価値があるように思う。
大切なのは、著者が主張するように、本書はキリスト教の公式見解や正解を示すものではない、ということだ。本書の魅力は、「自分だったらどう受け止め、答えるだろうか」と考えさせる余地と導きを備えている点である。各テーマに対して導き出す結論は、読者によって異なるだろう。しかし、この50の問いを、それぞれの場で向き合う若者たちに重ねて深めることが出来れば、それは自身の信仰理解を促すだけでなく、彼ら、彼女らに語りかける柔軟な言葉の発見に繋がるはずだ。そしてこの作業には、「問い」や「疑い」が必要不可欠である。
例えば、「まえがき」部分において、著者は「疑うという行為は、私にとっては信じられるものを見つけるために不可欠な行為です。信じたいから疑うのです」と書いて、疑うことを肯定的に描く。わたしも学生たちに、信仰やカルトについて話す時には、「信仰には問いが必要」と加えるが、その時念頭にあるのは聖書の登場人物たちである。その人たちは、人生の危機や理不尽さに放り込まれる時、存在をかけて「なぜですか」と神に問いかける。そして面白いことに、聖書では、たびたびその問いを通して今までになかった新たなことが示される。
しかし、こうした問いや疑いは不信仰で、信仰には相応しくない、とする人たちも確かに存在する。わたしが、そうした信仰理解を示す人たちに対して危うさを感じるのは、一見、神への従順を説きながら、実は神の言葉を代弁する自分たちへの絶対服従を求めているように映るからだ。
しかし、本書は、問いかけたり、疑いを抱えて核心に迫ろうとする人々の背中を、無理やりではなく、優しく押し出してくれるだろう。そこに、人生で悩み、問いながらも、前へと進もうとする人々に向けられたイエスの「安心して行きなさい」との語りかけが重なるのである。
佐原光児
さはら・こうじ=桜美林大学准教授・大学チャプレン