「検索プログラムとしての神話」の可能性
〈評者〉浅野淳博
ドイツ語圏を代表する新約聖書学者であるゲルト・タイセン教授による『新約聖書のポリフォニー─新しい非神話論化のために』が、大貫隆氏の手による翻訳によって日本語読者に提供されたことは、非常に喜ばしいことです。それは本著が、非神話(論)化(Entmythologisierung)のプログラムが現代においても貢献し続ける可能性を読者に提案しているからです。
副題の「新しい非神話論化のために」が示すように、本著はブルトマンの非神話論化を補正して新たに提示する試みです。背景にはナチス・ドイツの影響下での神学的議論があります。E・ヒルシュに代表されるドイツ神学者らは戦前と戦中にかけて、全体主義的な国家社会主義との一体化によって〈ドイツ国家の歴史の中に神が働く〉という歴史的解釈を提唱しました。この状況下で、ブルトマンは非神話論化というプログラムをもって対抗に努めました。ブルトマンはこの抵抗を個人主義的な実存論によって試みました。しかし現代社会において私たちがこのプログラムを継承しようとするなら、非神話論化に個人主義を越えた社会性・共同体性を備えた視点が不可欠となります。
そこでタイセンは「神話」という媒体に社会的な側面を見出します。「神話」は目の前にある現実が根本的に象られることとなった経緯についての物語です。タイセンはある意味での比喩表現である神話を人間が真の「いのち」を検索するプログラムと理解しますが、その探索の範囲をさらに世界の現実全体の意味へと拡げます。なぜなら人は、自己のみならず世界の現実全体を探究する際に神話的にそれを行い、自分は誰か、および世界は何かと問いつつ、それに対して神話的に答えるからです。
私たちは、このような検索プログラムを通して、神あるいはキリストをどのように理解するでしょうか。タイセンはその新たな非神話論化によって、ブルトマンにおいては背後に隠れていた神の問題が明らかになると述べます。それはつまり、「神が現実全体の秘義に満ちた存在」(一〇八頁)であるということです。タイセンはこの神の体験を、〈閉めきった空間から宇宙へと解き放たれた人が、その宇宙である現実全体との共鳴によって、進路と進路を探す自由とを得ること〉と表現します。さらにキリスト(の神話)は、世俗的精神性であるその閉めきった空間を神である現実全体へと解放する鍵です。キリストが啓示と言われるゆえんです。
このようにして新たな非神話論化のプログラムは、キリスト教倫理、自然神学、エキュメニズム等を看過しがちだったブルトマンの非神話論化のプログラムに新たな補正を加えることによって、教会間、宗教間、文化間の対話の可能性を得ます。神を「現実全体」、キリスト神話を現実全体へと人を解き放つ「鍵」と表現するとき、現代のキリスト者がこれをより説得性のある宗教表現として受けとめるかは各読者の評価を待つことにしましょう。何らかの文化的文脈なしに特定の宗教体験が説得性を持つかという問題は別として、すくなくともこの宗教表現は諸宗教の間の対話を強く促すコミュニケーション・ツールとして有用であるように思われます。
浅野淳博
あさの・あつひろ=関西学院大学教授