再検証される「パウロの律法観」百家争鳴の議論を整理する書
〈評者〉浅野淳博
神学は語る パウロと律法
ヴェロニカ・コペルスキ著
澤村雅史訳
A5判・192頁・本体3740円・日本キリスト教団出版局
教文館AmazonBIBLE HOUSE書店一覧
ヴェロニカ・コペルスキ著『パウロと律法』は、使徒パウロがユダヤ律法をどのように考え、どのように教えていたか、という問題に関する聖書学上の議論を総覧することを目的としている。著者はこれをジョセフ・プレヴニク著『パウロについて語られていること』の補完となる書と位置づけているが、その焦点は律法と義認論との関係性という非常に限定された主題を扱っている。
とくに宗教改革以降、ユダヤ教から回心したパウロが、ユダヤ律法に則して功徳を積み上げることで救いを得るユダヤ教の救済の仕組みを行為義認という呪いとして断罪した、という理解が一般に受け容れられ、これはそのまま現代にいたるキリスト教会によるユダヤ教とユダヤ律法に関する姿勢に明らかな仕方で反映されている。それはたとえば「(信仰義認の恵みのゆえにユダヤ教における)すべての『汝すべし』は取り去られた」というW・ヴレーデの印象的な言葉に代表される(Paulus, 1904)。
したがってこのいわゆる〈旧い視点〉を、一九七七年に公刊されたE・P・サンダース著『パウロとパレスチナ・ユダヤ教』が論破し尽くしたことは、キリスト教会にとっての一大事件となり、その影響は現代にまで及んでいる。サンダースはユダヤ律法を、救いにいたる契約の共同体で契約の民が生きるための道しるべとして神がその恵みゆえに与えたものであり、律法違反によって契約関係が損なわれた者を回復する贖いの手段をも提供する制度、すなわち〈契約維持の律法制〉であると説明した。
この〈新たな視点〉によってパウロとユダヤ律法との関係性が見直されはじめて四十年が経つ。それ以来、律法を肯定的あるいは中立的に捉えるパウロが提供する倫理的勧告は行為義認にならないか(たとえばライサネンはパウロの言説に矛盾を見出す)、パウロの信仰義認と倫理的勧告の関係性をどう理解すべきか(たとえばシュライナーは祭儀律法と道徳律法とを区別してこのバランスを維持しようとする)、そもそもサンダースが描くユダヤ教とユダヤ律法の姿は適切か(たとえばシルバは初期ユダヤ教に律法主義的特徴が存在するという旧い視点に固執する)、パウロはいかなる宗教を提供しようとしたか(たとえばシールマンはエゼキエル等によって始まる新たな契約をパウロが継承したと考える)、ユダヤ律法を肯定的に捉えるパウロはなぜ回心したか(たとえばローランドはパウロの回心をユダヤ教内における宗派の鞍替えと考える)、等の議論が継続しており、本書はまさにこれらの議論を整理整頓して読者に提供するよう試みている。
D・ムーはサンダース著『パウロとパレスチナ・ユダヤ教』の公刊を機に開始した百家争鳴ぶりを以下のように評した。「パウロの律法批判に関する議論は宙に浮いたままである。……何らかの解決が見出されなければならない状態が続いている」(Scottish Journal of Theology, 40 [1987])。ある意味で本書がこの四十年間の混沌ぶりを反映していることは否めない。それでも読者は本書をとおして、混乱をきたしているパウロ神学の一側面を理解するためのある程度の筋道を見出すことになるだろう。
最後に翻訳の労をとられた澤村氏に感謝する。
浅野淳博
あさの・あつひろ=関西学院大学教授