気っ風のいい話し言葉が柔らかく刺さる
〈評者〉深澤 奨
なんだろう、このすがすがしい読後感。一編読む毎に、胸の中にわだかまっていた聖書へのモヤモヤ感が少しずつ解きほぐされていくような、教科書通りの教理や解釈への疑問や不満に市民権が与えられていくような、そんな爽快感を覚える説教集でした。僕がずっと言いたかったのにうまく言えなかったこと。勇気がなくて言えなかったこと。反論に身構えてガチガチの言い方しかできなかったこと。それを何の恐れもてらいもなく、肩を怒らすこともなく、飾らない言葉で言ってのける。そんな吉岡さんを、一時期同じ佐世保の町で教派は違えど同志の仲間として歩ませてもらった僕は、とてもうらやましく思います。
「神から賜る家族の痛み」は、ルカ二章「神殿での少年イエス」を扱った説教。いわゆる「聖家族」について論ずるのですが、のっけからこの言いようです。
私は今日、「聖」だなんて冗談にも悪ふざけが過ぎる、と言いたい。「聖」なんぞという思い込みを誘う形容がいかに大間違いか、それをきちんと思い起こすのが今日の説教の主題です。
イエスを神棚に祀り上げ、「聖」なる装いで飾り立てることでは決して見えてこない福音を、こうして吉岡さんはとてもうまく垣間見せてくれています。
「見えざるホスト、その宴」は、ヨハネ二章「カナの婚宴」を扱います。吉岡さんは九節の「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召使いたちは知っていたが…」という一文を指して言います。
神の業を目撃したのは、下僕(召使いたち)です、と。この一行こそが一番大事なのです。これがなかったら…
この物語で一番大事なのはここだ、というこの気っ風のいい断言。すてきです。しかもそのぜんぜん教科書通りではないところが。下僕たちに専ら焦点を当ててこの物語を読む、ということを僕は思いつきませんでした。
この説教集の通奏低音はやはりフェミニストの視点。そこは、悔しいけれど自称フェミニストの僕には追いつけません。やっぱ男だから。説教集のタイトルでもある「少女の命・女性の命、嵐の中から新たな命」では、マルコ五章の「会堂長の娘と長血の女」の物語が、女の視点で鮮やかに語られ、そこにはこれまでの読みや日本語訳聖書への「異議申し立て」が溢れています。そして説教のラスト三行。
他ならぬイエスの私への私たちへのことば、「ホラ!起きろ! 歩け、私と共に歩くんだ」。なぜなら、この後イエスご自身が、暗い墓の中でその声を聴くハメになったのですから。「ほら、起きろ、歩け、もう三日目だぞ、いつまでも寝ているんじゃない」と……
こんな説教の終わり方を僕もしてみたいなあ。
最後に、この説教集の大きな魅力は、吉岡さんの普段通りの話し言葉による説教だということです。けっこう独断的で挑戦的な、しかし学問的にもしっかりした水準を備えた説教が、少しも嫌みに聞こえないのはその口調の柔らかさ、自然さにあります。その説教の聴衆・読者が、最初の伝道者となったサマリアの女に対して男たちが言い放ったような失礼極まりない言葉を口にしないよう願うばかりです。「我々が信じるのは、もはやあなたのおしゃべりによってではなく、我々自身が聞いて、この方こそ本当に世の救い主であると知ったからなのだよ。(ヨハネ四章四二節・拙訳)」。でも言いそうだよなあ、まだまだ。
深澤奨
ふかさわ・しょう=日本基督教団佐世保教会牧師