旧新約聖書に導かれて毎日祈りましょう!
〈評者〉加藤常昭
書名が示すのは、聖書の祈りを31日かけてじっくり学ぼうということです。旧約聖書16の祈りを、定評のある旧約学者、青山学院大学宗教主任であった大島力牧師。新約聖書15の祈りを、東大でギリシャ語を専攻し、いまは鎌倉雪ノ下教会の説教者として評価の高い川﨑公平牧師が担当しています。このお二人と編集者とが協力して、丁寧に造り上げた製作者の意図がよく現れた好著です。とてもよい祈りの導きの書物が新しく加えられたと喜んでいます。
まず聖書のテキストが読まれ、続いて黙想が記され、最後に素朴な短い祈りの言葉が記されます。
旧約聖書の祈りは、アブラハムに始まり、幾つもの祈りが紹介されます。たとえば、サムエル記上第1章ハンナの祈りです。大島牧師は、ハンナの祈りが「胸の内を注ぎ出す祈り」であったことをこう黙想します。「この『自分の胸の内を注ぎ出す』とは『私の魂を注ぎ出す』ということです。誰からも、また祭司からも理解されないような中で、『自分の胸の内』『自分の魂』を神に注ぎ出すことが祈りです。ですから祈りとは単なる祈願ではありません。その願いを含めて自分の憂いと悲しみをすべて神の前に、つまり『全存在』を神に注ぎ出すことです。そのような祈りに必ず神は応えてくださいます」。すぐれた黙想です。そして最後にこういう短い祈りが続きます。「神よ、私にも祈らせてください。私の願いも憂いも悲しみも、すべてをあなたの前に注ぎ出します」。
新約聖書の祈り15はまことに多様です。中には、そのままでは祈りとも言えないような言葉まで取り上げられます。主イエスが甦られたとき、その墓を訪ねたマグダラのマリアの物語です(ヨハネ第20章)。川﨑牧師はこう書きます。
「(前略)聖書から祈りを学び続けています。その際どうしても省略できないことは、〈復活の主の御前で生まれる祈り〉です。しかしその観点から言えば、この聖書の箇所(ヨハネ20・11~16)はあまり適当でないと思われるかもしれません。一見、祈りらしい祈りが見当たらないからです。
『誰かが私の主を取り去りました。どこに置いたのか、分かりません』。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります』。前からは天使が、後ろからは主イエスが声をかけても、マリアは聞く耳を持ちません。ひたすらに自分の涙の世界に引きこもろうとします。そのマリアの不信仰を、誰も責めようとは思わないのです。すべての信仰者が、こういう不信仰な、また絶望的な祈りを知っているからです。『イエスさま、どこにもいないじゃないですか』。その祈りを、お甦りのキリストの前ですることが大事です。
マリアの不信仰と絶望がどんなに深くても、主はマリアの後ろに立って、そして声をかけてくださいます。その事実に揺らぐところはひとつもありません。そこに新しい祈りが生まれました。『イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で「ラボニ」と言った。「先生」という意味である』。
ひとつ不思議なことがあります。誰に何を言われてもわからなかったマリアが、なぜ主イエスだと気づいたのでしょうか。どこでわかったのでしょうか。福音書はその点、理屈っぽい議論をしません。ただ、主がマリアの名を呼んでくださったことだけを伝えます。名を呼ばれたら、マリアはすぐにわかったのです(後略)」。
この黙想の後に、こういう祈りが続きます。「羊飼いイエスよ、私はあなたの羊です。私があなたを見失っても、あなたはいつも、私と共におられます。イエスさま、大好きです」。
加藤常昭
かとう・つねあき=日本基督教団隠退教師