聖書翻訳に刻まれた日本のキリスト教
〈評者〉遠藤佳那子
本書は副題に「資料の研究」とあるが、その内実は本邦における「聖書翻訳の歴史」および「キリスト教宣教の歴史」の研究にほかならない。そしてそのどちらの文脈においても本書は画期点となるだろう。それは副題のとおり、堅実な「資料の研究」によって成し遂げられたものである。
本書の意義として、評者は特に次の二点を強調したい。第一に新資料の紹介とその基礎的研究に先鞭を付けた点、そして第二に、聖書翻訳史を「宣教」という観点から描写してみせた点である。
聖書翻訳の研究には文献学的研究が不可欠であるにもかかわらず、手稿類やそれに関する研究が少なく、その点で隔靴掻痒の感が否めなかった。これに対し、本書ではこれまで等閑視されてきた資料群を中心に置き、ギュツラフ訳から共同訳聖書まで各時期の教会の動向や社会状況を整理しつつ翻訳の歴史を記述してゆく。第一章ではマラン手稿、第二章では「三要文」を、第三章から第五章では、日本聖書協会に保存されていた大正改訳稿本や戦時下の改訳原稿、口語訳聖書や共同訳聖書に関わる翻訳資料を手がかりに、どのような過程を経て訳文が練り上げられたのか検証されている。特に大正改訳以降の資料群が初めて研究の俎上に載ったことは、著者の大功として評価されなければならない。
なお具体的な訳文の考察を行う際には、どうしても日本語そのものの国語学的な知見が必要となる。それにもかかわらず評者の専門分野である国語学では宗教書であるという理由などから、聖書の訳文に踏み込むことを敬遠するきらいがある。本書では、日本語の用字法や振り仮名の役割、本邦における「文体」の歴史的沿革や問題点など、国語学の分野で厚い研究の蓄積がある事項についても的確にその勘所が押さえられており、その点でも信頼の置ける論考となっている。
一方で、具体に迫れば迫るほど特定の語や節の訳出に焦点が絞られ、ともすれば局所的かつ個別的な挙例の寄せ集めになりかねない。では網羅的に全編の悉皆調査をすれば大局的な実態や傾向が見出されるのかというと、そうとも限らないものである。しかしながら本書は聖書翻訳の営みに一貫して「宣教」という目的があることを喝破し、それを主軸に据えることで、文体史の枠組みにとどまらない聖書翻訳史の叙述を実現させた。起点テキストと目標テキストの狭間に数多ある「正しさ」の中から選ばれた訳は、まさしく当時の教会や社会状況を前提に選び取られた宣教のあり方である。翻訳の移り変わりは、すなわちキリスト教宣教のあり方の歴史だということである。
本書で翻訳関連資料が検証されたことによって、各時期の訳文の成立背景が示されただけでなく、協会主導の翻訳が決して単線でなかったことも示唆された。社会に流布した主要な翻訳を繋いで紡いだ聖書翻訳史が稜線なら、本書の描き出したものは稜線を支える山肌の複雑な起伏であろう。キリスト者たちが模索し、格闘しつづけてきた聖書翻訳の具体そのものの姿であり、彼らが目指した宣教の姿である。













