私たちをキリストにある生に導く珠玉の説教
〈評者〉濱和弘
本書は、キリストの平和教会の牧師であり、かつ神田外語大学の言語学の教授である岩本遠億牧師による説教集であるが、この説教者の経歴が、その説教に見事に反映されている。即ち、歴史的考察に対する深い洞察と聖書釈義には研究者としての側面が、また、聖書の言葉をわかりやすく教え導く説教の語りには教師としての側面が表れて出ている。それゆえに、本書に収められた十一の説教は、いずれも論理は明瞭であり、聖書の言葉を理解するための思考のプロセスが丁寧に示されている。
だからといって、いずれの説教も、けっして押し付けがましいものではない。むしろ、注意深く読者と対話しつつ、読者が自分の頭で考え、自分自身が納得するための導きを与える思考のプロセスを示していく。その意味で、本書は、読者を神の言葉である聖書の前に立たせ、聖書の言葉と対話させ、読者一人一人が、聖書を通して語る神の語りに耳を傾けさせるものとなっている。
とはいえ、説教には説教者の持つものの見方や神学が反映されるのは自然な事であって、本書の説教にもそれが垣間見える。たとえばそれは、人を喜ぶに満ち生きることを願う神観となって表れ、それゆえに、神は人を苦しみと滅びから解放し救うという救済観として現れ出ている。キリストの十字架は、罪の代償というよりも、悪魔に対するキリストの愛による勝利の業であるとされる。またこの救済観の背後には、人間は、神の本質に繋がる神の像を有する神の大切な一部分であり、神の命に溢れ、喜び生きる存在であるという人間観と共に、現実には、その喜びに生きることができず、神の命に欠けた生き方を強いられ、神の目に失われた存在となっているという現実理解がある。それゆえに、神は「人間を探し求める神」なのである。
この神の命に欠けた生き方を、説教者は罪と呼ぶが、その罪の原因を人間の内側に見るのではなく、むしろ人間の外側にある悪魔的な力に見ている。だからといって人間の内側にある罪の問題を見落としてはいない。外側の悪魔的な力に誘惑され、引き起こされる人間の肉の欲望に支配される現実や自らの善行に安心を求め、自己を正当化する自己義認を人間の内側にある汚れとして罪を捉えている。
このような神学的理解のもとで聖書が読み解かれ、それが説教という場において語られていく。説教は、それを聴く者の心に神の慈愛が届けられ、慰めと今ここでの生を生きる力を与える励ましを与えてこそ説教である。そういった意味では、本書に収められたいずれの説教も、それらをもたらす神の言葉の恵みに満ちている。私たちの内側にある罪の問題を指摘する言葉があっても、けっして私たちを責めるのではなく、逆に私たちの現実に目を向けさせ、汚れた内面だけでなく命に溢れる愛の根源があることを知らせる。そのうえで、その愛の完成者であるキリストに目を向けさせるのである。そして、そのキリストと一つに結ばれる聖霊なる神の御業の中で、私たちがキリストに倣い生きることで、私たちの内にある愛を完成させることができるのだと励ましていく。それはまさに慰めであり、生きる支えである。そういった意味で、本書の説教は、私たちをキリストにある生に導いている。
濱和弘
はま・かずひろ=日本ホーリネス教団小金井福音キリスト教会・相模原キリスト教会牧師