不器用な人びと
〈評者〉大頭眞一
フォーサイスを読もうと何度となくこころみたぼくである。今さらもう一冊の訳書が出たからと言って、手に取るつもりはなかった。
けれどもあの川上直哉から、書評を書くように指名があったとなると話は別だ。こころはずませて、というわけではないのだが、手に取ることになった。
かつて平野克己さんが、大頭眞一と焚き火を囲む仲間たちの「焚き火を囲んで聴く神の物語・対話篇」を、「奇書」と呼んだことがある。だとしたら、この書もまちがいなく奇書と言える。なにせフォーサイス「活けるキリスト」の訳本なのに、187頁のうち活けるキリストは47頁だけ。その他の部分はおおむね、なぜフォーサイスが読みにくいのか、を論じているのだから。収録されている論文のひとつは、なんと、『フォーサイスの「わかりにくさ」』と題しているのだ! こんな本の売り方をするのは、まちがいなく不器用な人間である。そして川上直哉はぼくの知るかぎり、世界でもっとも不器用な人間のひとりである。
今までもずいぶん不器用に生きてきたようだし、今もまた石巻で、いまだ癒えぬ大震災の傷跡を不器用につくろっているのだ。そんな人間が不器用なフォーサイスに惹かれたのもむしろ自然なのだろう。今から100年ほど前に生きたこの人は「私はずいぶん前から『わかりにくい人』と言われている。」(60頁)と、自ら記す。確信犯である。その確信は、どうやら、神はわかりにくく、世界の窮状もまたわかりにくいというところから、来ているようだ。つまり、教会が語ることばは、わかりやすくなりすぎてはならないのだ。そのとき、教会はこの世の窮状とそこに働く神の力に目を閉じ、耳を塞いで、内なる分かりやすさのなかにしゃがみ込むことになるのだ。
川上直哉の不器用さ、そして、フォーサイスの分かりにくさの原因は神学へのこだわりにある。フォーサイスは言う。「神学とは、端的に世紀単位で思索することである。宗教は現在についてのみ語る。しかし、神学は宗教と人類の未来について語るのだ。」だから、コロナの時代に神学は必要なのだ。被災地に神学は必要なのだ。現代の問題が何であり、そこでなすべきことは何であるかを知りたいならば、あなたは本書の173頁を読まなければならない。
川上直哉の不器用が頂点に達するのは、164頁のあたりである。そこで川上は、無鉄砲にも、今をときめくキリスト教界の論客に苦言を呈するのだ。こんなことはぼくなら決してしない。今からでも削除したほうがいいと思うが、これまた不器用なヨベルの安田社長も、そんなことはしないのだろう。
フォーサイス、川上直哉、安田正人、こうした不器用な人びとが作った奇妙な書。けれども気がつくと、ぼくはこの本を読んだのだった。だとするなら、川上直哉はとても器用なことをしたことになる。この人は、一周回って不器用ではないのかもしれない。ふと、そう思ったが、やはり気のせいだろう。川上直哉はぼくの知るかぎり、世界でもっとも不器用な人間のひとりである。
大頭眞一
おおず・しんいち=京都信愛教会/明野キリスト教会牧師、関西聖書神学校講師