愛のチャレンジへと背中を押す 力強いクリスマス説教集
〈評者〉土肥研一
カトリック教会の著名な説教者である晴佐久神父による、待降節から公現日の十本の説教を収める。いずれもこの数年の内に、コロナ下で語られたものである。
読みながらワクワクし、さらに牧師・説教者としての自分を問われる思いがした。ぜひプロテスタント教会に生きる多くの方、特に同労の牧師たちに読んでいただきたい。
この説教の不思議な魅力の源は何だろう。大きく二つの特徴があると思う。一つは、救いをまっすぐに、わかりやすい言葉で宣言する力強さ。例えば、こんな言葉がある。
「待降節の味わいは、『もうすぐ主が来られる、いやもうすでに来ている』っていう喜びにあります。神は私たちを、もうすでに愛しています。その愛の中で、私たちも神を愛します。そんな喜びに満ちた日々を過ごしつつ、クリスマスを迎えます」
「もうすでに来ている」「もうすでに愛されている」「もうすでに救われている」。こういう言い方が、この説教集には繰り返し出てくる。この「もうすでに」のゆるぎなさが、本書にみなぎる力強さである。
ここから展開する洗礼理解も印象的だ。「そもそもあなたがこの世界に生まれたときに、神さまは喜んでいます。生みの親ですから。……洗礼はね、神の子が親の愛に目ざめて、『あなたこそ私のまことの親です、あなたの愛を心から信じます』って言うとき、すなわち、神に向かって『ママー』と呼びかける、そういう儀式ですね」。
もうすでに神に愛されている者が、その愛にやっと気づいて、生きる方向を転換する。それを助け、この目ざめの道に同伴するためにこそ、教会は地上に存在し、司祭も牧師も働く。それを改めて教えられ、ワクワクした。
このことと深くつながって、本書の説教のもう一つの特徴が生まれる。それは、説教の中で折々に言及される、苦しむ人々に伴う晴佐久神父の働きである。
例えば、精神科への長期入院を経て、病院を飛び出した青年の話が出てくる。そのままでは路上生活になってしまうので、勇気を出して近くの教会に飛びこんだ。しかしその教会では「うちでは対応できない。晴佐久神父のところに行くといい」と言われてしまう。晴佐久神父は、その青年の当面の宿代を工面し、区役所の福祉課に掛け合って住まいを得ることができるようにした。以来共に教会生活を送り、やがて洗礼の希望を申し出てくれたその青年に、晴佐久神父は告げた。「私は初めて会ったときから、ああこれは神さまが出会わせてくださった家族だと思ったし、当然のこととしてお世話しただけです」。
これを美談や自慢話と片付けてしまうなら、なんともったいないことか。「私たちはもうすでに愛されている」。この福音を先に知らされた者として、あなたにも、神が出会わせてくださる方々があり、その方々にできること、すべきことがある。それを伝える説教集だと思う。
クリスマスの冒険旅行をした占星術の学者たちになぞらえて、晴佐久神父はこう言う。「教会がチャレンジしなくなっちゃったら、もう教会じゃないでしょう。……でも、そんな教会が増えているんじゃないですか?」神の愛の招きを聴きとりたい。
土肥研一
どい・けんいち=日本基督教団目白町教会牧師、編集者