「よきもの」を再認識させられる詩文集
〈評者〉水島祥子
あれは3年前、教会への説教奉仕のときのこと。礼拝開始まで時間があり、わたしはロビーで何気なく月刊誌『信徒の友』をめくった。その瞬間の出遭いだった。巻頭の「祈り」のページにあった「小鳥の歌った歌」である。その詩の内容が映像として見えた。これが、中山直子さんの詩との衝撃的な出遭いだった。
わたしは普段好んで詩を読む方ではない。活字中毒だった中高生の頃は、学校の宿題もそこそこに家にある新聞や月刊誌、学校の図書室や友人から借りた本まで一晩一冊ペースで読んだ。ジャンルは不問。小説が多かったが詩集も図書室にある有名なものは割と読んだ。しかし、ここ何年も自分から進んで本を読むことができなくなってしまった。膨大な情報量に毎日接するあまり、読みたくても本に手を伸ばす余裕がないのだ。
そのような状況での中山直子さんの詩との出遭いだったから、衝撃は大きく強烈だった。どのような方かも存じ上げず、でも礼拝式次第での交読文に代えて「小鳥の歌った歌」をリタニー(交祷)として使用することにご快諾をいただいた。
その後も毎月の詩を司会・会衆・一同で唱える交祷の形に変え、毎月奉仕をした三教会のうち二教会で、二〇一八年度の一年間リタニーとして使用させてもらった。
今回、十二回にわたり『信徒の友』に掲載されたその詩に書き下ろしの詩とエッセーを加えて『二羽の小鳥 信仰の尽きぬよろこび』として書籍化された。ここでも出遭いがあった。
六月の詩「引っ越し」である。最後と思っていた公営の分譲住宅への引っ越しが、最後ではないことに気づかされるシーンだ。この世を生きている者には、天国への引っ越しという一番大事な引っ越しがまだ残っているという真実に、子どもとの会話で向き合わされるのだ。今を生き急いで忘れがちになる大切なもの、立ち止まり目を注ぐべきものに気づかせてくれる日常のまなざしが、中山直子さんの詩にはある。「あとがきにかえて この詩文集をつくった私のものがたり」を読むと、第一部の詩が日記代わりに綴られてきたという背景がわかり、「ああ、それで気負わず、この透明感なのか」と納得した。
牧師の小島誠志さんが「推薦のことば」で書いているとおり、感想や批評とかで中山直子さんの詩の透明感を濁したくはない。喜びばかりではない、さまざまな悲しみや苦難の経験もすべて神による大きな慰めに包まれていることが詩人のまなざしを通して示されている。
エッセーから気づかされたのは、教員からの刺激の大きさだ。中山直子さんは幾人もの教師からよきものを受け取り、おそらく自らも教壇に立ったときに学生によきものを伝えていったことだろう。中高、大学で教員のわたしが、このようによい刺激を生徒・学生たちに与えているか、と自問する。一方で、教育は神の領域なのだから教えるという行為はおこがましい、共に学び、育つ「共育」ではないだろうかとも考える。
中山直子さんの詩やエッセーに刺激をいただきながら、わたしも大切なものへのまなざしを忘れずにいたい。
水島祥子
みずしま・しょうこ=松山東雲中学・高等学校宗教主事