ナチ時代を生きた旧約学者の良心的戦いを証言する貴重な書
〈評者〉小友聡
本書は、20世紀最大の旧約学者ゲルハルト・フォン・ラートのナチ統治下での講演集である。フォン・ラートと言えば、大著『旧約聖書神学Ⅰ』『旧約聖書神学Ⅱ』(以上、荒井章三訳)、『イスラエルの知恵』(勝村弘也訳)、さらに『旧約聖書の様式史的研究』(荒井章三訳)などが邦訳されている。フォン・ラートは第二次大戦中のドイツではいわゆるドイツ・キリスト者ではなく、告白教会に属する気骨の旧約学者であったことが知られている(並木浩一『ATD旧約聖書注解創世記下』解説)。このフォン・ラートが戦時中に旧約聖書をどのように語ったか、彼の肉声を伝える講演集が本書である。荒井章三先生が苦労して収集した(未刊行のものも含む)フォン・ラートの講演原稿が丁寧に翻訳され、また荒井先生御自身による解説文も加えられている。ナチ時代を生きた旧約学者の良心的戦いを証言する貴重な本である。
本書に収録されている講演は1934年から1939年にかけてのもので、「アブラハム・イサク・ヤコブの神」、「旧約聖書─ドイツの人々に対する神の言葉」、「旧約聖書が持つ不変的な意義」、「旧約聖書における生と死についての信仰証言」、「旧約聖書における聖書解釈の諸問題」、「なぜ教会は旧約聖書を教えるのか」、以上六つの講演の他、付録として「旧約聖書を通してのキリスト教入門」が収められている。1934─39年と言えば、まさにナチによるユダヤ人排斥の時代であり、ドイツの諸教会では「旧約聖書」はユダヤ民族の聖典として拒否される状況だった。当時、旧約学者フォン・ラートはナチの牙城と言われたイエナ大学で教鞭を執り、妨害にも臆することなく旧約聖書の重要性を語った。神学部で学ぶ学生はほんの僅かで、ヘブライ語の学習すら忌避されたが、彼は真っ向からそれに異を唱え、良心的に発言した。「信仰告白的状況」(status confessionis)に立ち、命がけで戦ったフォン・ラートの姿が本書から鮮やかに浮かび上がって来る。
戦時中のフォン・ラートと言えば、若き関根正雄氏がイエナ大学留学中にこのフォン・ラートに師事し、師がナチに抗った感銘深い思い出を書き残している(『関根正雄著作集第3巻』)。20世紀最大のドイツの旧約学者が戦時下の教会で旧約を旧約として説き、旧約と新約を切り離さず、旧約から福音を説いたことが本書からよくわかる。フォン・ラートは旧約学者である前に福音を説く伝道者であろうとした。そのような彼の信仰姿勢とその旧約聖書学の意図を本書はあぶり出す。
フォン・ラートの旧約神学は旧約を宗教史としてではなく、信仰告白の証言史として救済史的に捉えた。その限界性と課題が指摘されて久しいが、フォン・ラートが方法論として用いた様式史において「生の座」Sitz im Leben という概念は、裏を返せば、彼自身のSitz im Leben に繋がっている。本書は旧約学者フォン・ラートを紹介するだけでなく、彼の旧約神学が極めて時局に裏打ちされていたことを教えてくれる。荒井章三先生の訳業に心から感謝したい。
ナチ時代に旧約聖書を読む
フォン・ラート講演集
G・フォン・ラート著
荒井章三訳
四六判・204頁・2310円(税込)・教文館
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小友聡
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