教派の特徴を鋭く分析した類稀な入門書
〈評者〉藤本 満
翻訳の責任を担った加納和寛の専門分野は必ずしもメソジストの歴史や神学ではない。関西学院大学で教鞭を執り、神学部の学生を連れてソウルのメソジスト神学大学を訪れたとき、韓国側から質問を受けた。「メソジスト的な牧師養成教育プログラムとして、具体的にどんなことをしていますか?」
加納は答えに窮したという。自分は、関西学院大学で教鞭を執りながら、「このままメソジストのことをあまりよく知らないままではいけない」のではないか(二二八頁)。こうして訳者が出会ったのが本書である。
「入門」と題されていても、エイブラハムの書物はいつも多角的で挑戦的である。ウェスレー・初期メソジストを的確に把握した上で、その後のメソジストの深化と広がり、教会の分裂、世界各国のメソジスト教会の特色、労働運動から教育・医療などの社会的奉仕、さらにペンテコステ運動への波及など、話題は多岐に及ぶ。出来事・人物・神学、とメソジストの特性を浮き彫りにする著者の学識には圧倒される。流暢な翻訳にも感嘆する。
このような本は類を見ない。翻訳されたお二人に感謝すると共に、メソジストの流れにある教会(ペンテコステ派も含めて)の必読書となることは明らかである。
メソジストは「教会と国を改革するため」に神が起こされた霊的刷新運動であるとウェスレーは理解していた。が、そこには初期の段階から「キリスト教全体の新しいビジョン」(五六頁)が具現化されていて、国教会の精神や構造に収まるものではなかった。
メソジストに与えられた「使徒的使命」は、その後の歴史において形を変えて刷新を繰り返していく。一九世紀英21国では、社会的正義(聖化)を求めて、メソジストは奴隷売買禁止運動、労働組合運動を支え、さらに救世軍のような貧者の救済を目的とした組織も誕生する(第七章)。北米では「意識的な聖性(ホーリネス)の経験」(九八頁)が強調され、それがペンテコステと重ねられて「聖霊のバプテスマ」と呼ばれて世界をめぐる。メソジストの組会は大人向けの教会学校、やがては弟子訓練・スモールグループへと刷新されていく(第六章)。
エイブラハムの優れた分析が光を放っているのはメソジスト神学の流れをどのようにとりまとめるかにある(第五章)。メソジスト教会は、ドイツの自由主義神学、プロセス神学、多元主義、解放の神学と、手を広げることを許してきた。あまりにも幅ができてしまった現実に対して、著者も影響を受けたアルバート・アウトラーは、原点となるウェスレーの全一五〇編の説教を編纂し、ウェスレー神学の魅力を明らかにした。さらにメソジスト神学を聖書・伝統・理性・経験の「四辺形」によって権威づけることによって、誰もがメソジスト神学の一つのテーブルに座せる幅を持たせた。だが、「さまざまな類いの神学を探求した末に、時を経て教会をウェスレーという港へ回帰させる」(一〇二頁)というアウトラーの期待は実現していないと著者は考える。
著者は、メソジスト神学が輝きを放つのは、それが「貧しい人々や社会の片隅に追いやられた人々に解放をもたらす」とき──これこそがメソジストの「神学的課題の主旋律でありつづけた」(一〇三頁)と考えている。おそらく、この主旋律に(本書の至るところで用いられている用語である)「ホーリネス」という旋律を重ねても、著者の意向に反することはないと思う。