苦しむ人に寄り添う、そこから紡がれる言葉
〈評者〉川上直哉
「正しい説教」というものは、あるのでしょうか。
私は「ある」と思っていました。ですから、震災前まで、私は「完全原稿」を、いつも作っていました。「完全」な原稿です。そのために、説教準備の時は、とても緊張して、機嫌が悪く、家族にも迷惑をかけていました。
二〇一一年に震災がありました。津波と放射能の被災地で日々を過ごした私の説教は、全く変わりました。「正しい説教」と「御言葉が正しく語られること」は、まったく違うと、私は現場で知らされたのでした。
『苦しみの意味』と題されたこの本を読んで、私はそのことを思い起こしました。「苦しみに意味があるのか」という問に、神学的な「正解」を出すこと─そこには、何の意味もない。そう知らされる本です。「どう答えても、間違っている」という窮境で、ただ、痛む人に寄り添い、何とか言葉を紡ぎ出してみる。そんな証と対話と説教が集められて、この本になっていました。
編者は柏木哲夫さんです。「はじめに」で、柏木さんは、自分自身の過去の苦しみを振り返り、その「意味」を模索します。そして神さまがその苦しみを与えたとは思わないと断言し、同時に今に至る道を神が守り続けてくださった、心から感謝していると語ります。「全知全能」とか「摂理」といった神学議論が全く力を失う場面。ただ、「それでも」感謝している自分がいる。そのことが、証になる。自分自身の存在そのものが「苦しみにも意味がある」ということの証拠になるということでしょう。
また、励ますことが、間違っている時がある。そう柏木さんは語ります。励ますことの難しさを教えられます。続いて視力を失った時、まだ幼い息子を交通事故で奪われた時、重い病いに罹った時、そして、東日本大震災。そうした現場から紡がれた16人の言葉が続きます。
この本は四部構成になっています。まず㈠苦しみの当事者の言葉が集められ、そして、㈡苦しむ人に伴走する人について語る言葉がまとめられています。その後、㈢聖書を読み解く著者二人の努力があり、そして最後に、㈣現場から聖書が想起されたことの証が集められています。この後半の二つのまとまりの間に、決定的な違いが感じられます。聖書から現場を語ることの空疎さと、現場の光で聖書を照らすときに聞こえてくる神さまの声との違いが。
私は、ルカ福音書六章を思い出しながら、この本を読みました。イエスさまはそこで、貧しさと病いに苦しむ人々がごった返す平地に降りて行き、その群衆のただ中から、弟子たちに語ります。「幸いなのは、悲しむ人々だ!」と。イエスの弟子であると思っている私たちは、その御声を聞いて、当惑します。「そんなばかな」と。そして私たちは、まさに今、神さまが悲しむ人々のそばにいて、共に涙を流しながら、何か良いことをそこに起こしていることを知る。そうしたドラマが今も起こっていることを、この本は私たちに知らせます。そのドラマに触れて、はじめて説教壇からも「御言葉が正しく語られること」が起こり得る。私のような土の器にも、神の言葉が語り得るとすれば、そうした段取りを踏むのだろう。そんなことを思わせてくれる本でした。