神さまから肯定されていることを肯定して生きる
〈評者〉佐々木潤
「私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13・7。三番目の説教箇所)。
ああ、そういうことだったのかと、あとになって分かることが確かにある。同じ日の中にも、数日後にも、何年、何十年も経ってからでも、あれが、今のこの時のための伏線となっていた、ということに気づかされて、ひそかに驚愕する、ということがあるものだ。
むなしく過ごした年月を嘆きながらも、大切なことを取り戻すべく、喜ばしい方向転換をする、そのような時が、もしかしたら人生の終盤にふと訪れる。この説教の最初の聴き手たちにも、この本を読む人たちにも。
久野先生が、最終任地であられた函館でお忙しく厳しい本務の中を、翌日の月曜日には遺愛学院女子中高に出かけていって、学内礼拝で語られた説教である。すでに出版されている説教集を読む限りにおいては、教会での主日の礼拝説教はいつも硬質で丁寧な聖書講解で、よく磨き上げられた食器に盛り付けた福音という大盛りの料理を、ゆっくり噛みしめて味わうようなものであった。が、翌日の遺愛では、25分の礼拝の中で説教は10分。そのあと授業が始まるから超えることは許されない。その短時間ですら、自分と関係ないと思った生徒は遠慮なく眠る。そこに届けようというのだから、久野先生もそうとうに試行錯誤なされた痕跡がうかがえる。説教は、厨房からそのままどこにでも配達されるような均一のものではなく、その礼拝の場ですでに食べ始めている人の顔を見ながら調理され味付けされて出されるものだ。「久野先生の願い」に満ちた30 編の説教からは、これらの言葉を分かち合った遺愛の子どもたちの顔も浮かび上がってくる。
書名はイザヤ書43章がもとになっていて、八番目の説教(44頁)の題でもある。神さまから自分が肯定されていることを肯定して生きる、というテーマが、短い中にも言葉を尽くして語られていて、ほかのいくつもの説教の中にも、同じ音色を聴くことができる。
それにしても、10代というのはどうして、ああもシンドイものなのか。聞きたい言葉と聞きたくない言葉がうなるように吹きすさぶ中を、空中分解も危ぶまれ、前に向かっているのだか吹き回されているのだか、よくわからないままに飛んでいる。そんな感じの、めんどくさい年代だったころの私が、もしこの学内礼拝の場に居合わせたら、ものすごく無礼な態度をとったかもしれない。しかしこの説教者は、びくともしないだろう。すべては織り込み済みで語っている。後になってから分かる。それを知っているからである。
各説教のうしろに「ナビ」というコーナーがある。短いコメントがあり、有名人・無名人の言葉の引用がある。ズシンとこたえたのは、ボルフガング・ボルヒェルトの「そのときはただひとつ!」という作品。ちょっと長い全文が135ページから載っている。根拠ある肯定に生きている人は、根拠なきものを否定できる人でもあるのだ。
これまで何度もお名前を目にしていながら今更のことであるが、失礼にもお名前を勝手に、クノマキ、と読んでいた。違いました。ヒサノノゾム、です。なぜそう読むのか。慎ましくも〈附記〉とされている「研究者から牧師への道へ」まで来たとき、お名前に込められた、本人にとってとても大切なひとりの人の思いと祈りがあったことを知り、ああ、そういうことだったのか、と全編を読みかえすこととなった。だから読者には、ここを最初に読むことをお奨めしたい。ひとりの人の歩みは、ほかの誰とも違う。いろんなものが突き刺さっていて、たくさんのものが埋まっている。何もかも過ぎ去ったようであっても、後になってから、何もないと思っていたところに模様が浮かび、盛り上がってきてレリーフのように姿をあらわし、立像となって歩き出す、ということがあるものだ。
「神の目にあなたは貴い」。それは本当のことなんだと、わたしたちの顔を見ながら、その人はわたしたちに告げた。若い日、わたしたちはそれを聞いた。聞いたとおりの現実の中に、きょうも新しい一日を迎えて、わたしたちは生きている。


















