イエスの愛といのちに生かされて
〈評者〉島先克臣
本書は、神田外語大学大学院の言語学教授である著者が、ご自分の牧する「キリストの平和教会」で語ったルカの福音書講解説教シリーズの第一弾である。
この書には三つの特徴があると思う。
まず、わかりやすい説教でありながら、当時の歴史背景を詳しく説明していることだ。たとえば、祭司ザカリヤが務めた聖所での役割が、一生に一度のチャンスでもあったことがよく伝わる解説がある。90年代以降の発掘調査に基づき、ヨセフとイエスがナザレ近くのギリシア都市ツィポリの建設に携わっていたであろうという新しい説は実に興味深いし、カペナウムの百人隊長と領主ヘロデとの関係についての説明も詳しい。また、天の御国を歴代誌上28:4-5の「主の王座」、また、歴代誌下13:8の「主の王国」と結びつけた点も新鮮だった。
次は、行間を読んで、登場人物を立体化することだ。洗礼者ヨハネが物心つく頃、父ザカリヤに「ねえ、お父さん。どうして僕はお父さんの名前…をもらわなかったの?」と尋ねる場面を想像し、ヨハネが祭司ではなく、メシアの道備えをする預言者としての意識を持って育ったのではないかと提案する。荒野におけるサタンの誘惑の一つは、「神様、私のことを愛しているんですよね」と神の愛を確かめさせることだという。そして「愛は確かめられたときに死ぬのです」と著者は語る。
第三は、実例が多く用いられていることだ。まず、著者自身の背景や体験が織り交ぜられている。著者の自叙伝『聖霊の上昇気流』(ヨベル、二〇二二年)に詳しいが、ニューギニアで命がけで宣教した時のことなど、さまざまな奇跡的な体験を語ることによって、メッセージを単なる「講話」ではなく、今、ここで生きておられるキリストの力強い言葉に変えている。また、「いさおなき我を」の作家シャーロット・エリオットの生涯と詩が紹介され、感動的に神の愛の大きさ深さを伝えている。
読み進む中で感じたことがある。それは、書の終わりに向かってイエスの愛といのちがクレッシェンドのように迫ってくることだ。罪も汚れも、それはいのちの欠如。イエスは私たちを愛し、いのちに満たそうとしているというメッセージだ。著者は、ギリシアの霊肉二元論に陥らないように読者に警告を与えながら、最後の章「キリストは、あなたが死んでもあなたを諦めない」では肉体の復活を説き、イエスのいのちは、私たちの心だけでなく、体にまで豊かに満ちる、それを今も受け止めることができるのだと言って書を閉じる。
聖書は古代のオリエントで編纂された古代の文献だ。古代人が古代人に向かって書いたものである。だから、その意味を探るために、さまざまな努力がなされてきた。ただ、当時の意味を知的に探究するだけでは「神のことば」を正しく扱っているとは言えなのだろう。古代の古びた文献から、イエス・キリストが立ち上がり、今、ここに生きる私たちに愛を語り、いのちをリアルに与える。キリストの口から出る聖霊の息吹を感じさせるのが本書と言えよう。
島先克臣
しまさき・かつおみ=聖書を読む会総主事