しなやかに、まっすぐに、読者を打つ説教
〈評者〉佐々木潤
「わかります!」。私がこの本を贈ったその人は、読み始めてしばらくしてから嬉しそうに顔を上げて、そう言った。どうしてそう言うのかが私にもわかる。よくわかるのである。平易ということではない。難しい箇所を奥深くまで解いていても「通り」が良く、清々しいのである。「山上の説教」(マタイ5─7章)を分かりたいと思う人は、この本を手に取ることで、いま望みうる中で最適の道案内を得る。信頼できる手本である。ここに「学び、まねぶ」ことで、群衆が主イエスの言葉になぜあれほど驚いたのかを知るだろう。真の権威を悟るからである(説教1と22)。
弘前教会で私が先生と出会ったとき、前任の教会ですでに『天に宝を』という山上の説教の説教集を編んでおられた。浴びるようにその説教を聞いたのは、高校時代の二年間に過ぎなかったが、その間に「山上の説教」も講じていただいた。
主イエスが丘の上におられ、弟子たちが主を見上げながらその周りを囲み、さらにその周りを群衆が囲む。主の言葉は、弟子たちと群衆、教会と世を乖離させるような二方向・二種類のものではなかった。同じ祝福と約束、命令と招きが、弟子たちと群衆に届いてくる。弟子たちは群衆を背にして主のお姿に集中するが、主のまなざしは弟子たちだけを切り取るように見るのではなく、群衆を背後にした弟子を、そこから呼び出され、そこへと遣わされる一人ひとりとしてご覧になるのである。そして当然だが、群衆は弟子たちの背中を見、弟子たちの肩越しに主を見る。この「同心円」の群れ全体を吹き抜けるガリラヤの風は、主イエスの声とともに、弟子たちの頬をなで、群衆の胸元をふるわせ、大地と湖面に吹き渡る。
「ガリラヤ湖を望む山上に招かれた人々の一人になった思いで」私も聞いた。聞いて、主の道が開かれた。ついていきます、と私は思った。キリスト者であることの喜ばしさ、主の約束と使命に生かされて世のために歩む教会の誇らしさを叩きこまれ、そして私は神学校に行くことになった。
あのころの先生は四〇代とはいえ、育ち盛りの子供たちのひしめく牧師館であの説教を準備なさりながら超多忙な牧会の日々であられたのに、数日に一度教会の集会にやってきてはそのあと日付が変わるころまで牧師館に入り浸る高校生の相手をしてくださった。おかげで今の私があるのだが、カバーに載る著者近影の白髪は私のせいだ。そのまなざしは私の行く末をなお心配そうに見ているかのようだ。だが私の他にもひそかに心苦しく思っている人はたくさんいるのだろう。
先生の説教は、書道の書体で謂うなら「楷書」である。お手本のような筆の運びは一点一画も崩さない。しなやかで活き活きしたその字体でなぞる主の御言葉はまっすぐに心を打つ。練りに練られ工夫に工夫を凝らしているのに、技巧を見せつけず、邪念も、擦れも、ぶれもない、誠実な説き明かし方は、若き日の書体と変わらない。これだけ年月を経ているのに、説教の言葉が老け込んでいないで、むしろ、みずみずしさを増している。それは山上の説教を構成する同心円の中心から汲み続けてこられたからなのだろう。もつれた糸を切らすことなくほぐすように説く、説教7と18が印象深い。これから読む人には説教2を必ず読んでほしい。「戦責告白」の講解でもある。先生の生涯のはたらきは、その中の「預言者的使命」という言葉がふさわしい。
佐々木潤
ささき・じゅん=日本基督教団武蔵野教会牧師