文献学や聖書学にもとづく知見を得て実像へと導く
〈評者〉相賀 昇
本多峰子氏は現在、東京・八王子栄光教会における牧師であり、同時に第一線で活躍する神学者(文学・学術博士)です。評者は著者を伝道師時代から知る者のひとりですが、激務のなか数多くの優れた論文、著書、翻訳書を著わしつつ、牧会者として一筋の心もって歩む日々。そのひたむきな研究と黙想の営みのなかから生まれたのが本書です。
前半はマグダラのマリアにはじまり、お馴染みの女性たち、すなわちサマリアの女性、ナインのやもめ、長血を患っていた女性、姦淫の現場を捕らえられた女性、聖母マリア、そしてマルタとマリアへと続きます。ちなみにレクラム版『聖書人名小辞典』(創元社)によれば、人物名の見出しは二、〇三六項目、登場人物は約三、五〇〇人にのぼります。
そうすると、本書に登場する人たちはなるほどイエスとの出会いを果たし救われた稀有な人たちです。しかし、著者は彼女たちや彼らたちもまたわたしたちと同じく「ごく普通の人間」であって、その救いの出来事は今も起こりうることに気づかせます。それぞれ出自もおかれた境遇もおよそ異なる人たちが、イエスが「憐れに思って」差し出された救いの手に触れると、ひとしく癒され、慰められ、解放されて新しい人生へと送り出されていくのがわかります。
読者は文献学や聖書学にもとづく知見を得て人びとの実像へと導かれます。たとえばマグダラのマリアは伝統的にふしだらな女性として歪曲されてきましたが、実は彼女こそイエスの「復活を最初に証言し、宣べ伝えた第一使徒」(本書22頁)に他ならず、虚像は見事くつがえるのです。
さらに著者が「聖母マリア」の章において次のように書くとき、その視座は現代に生きるわたしたち自身への問いかけとして圧倒的なリアリティーをもって迫ってきます。
「イエスの救いの手は、貧しい人たち、苦しめられている人たち、穢れとして避けられているひとたちに真っ先に向けられました。[……]性的虐待を受けて子を宿し、その子を懸命に育てることになるけなげな少女たちの一人がマリアだったとしたら、それこそ神のなさり方にふさわしいのではないでしょうか」(64頁)。
「神のなさり方」とは神の「意志」とも「計画」とも説
かれています。このような「神の相」のもとにひとが置かれると、そこでは使徒ペトロ、十二使徒たち、罪人と呼ばれている人たち、使徒ヨハネやパウロたちもみな「弱いままで招かれ」、「赦しと救いを経験した人」として真実の相を帯びて立ち現れてきます。そしてついに圧巻の最終章、古来最大の謎に包まれた人物、罪と裏切りの悪魔とも称されたイスカリオテのユダに至っては、彼こそ「後悔と苦しみの末に、[……]最大の赦しと救いを経験した人」(171頁)として闇の底から鮮やかに浮上してくるのです。
イエスとは誰か、救いとは何か。この古くも新しい問いをめぐって本書は十三章全編、これまでわたしたちが抱いてきた解釈や理解の地平を修正するだけでなく、より新たな喜ばしい地平へと誘ってくれます。ぜひ多くの方にその刺激と感動を味わって頂きたいと願ってやみません。