「話し合いは多く、戦略は少なく」が大切なことのようだ
〈評者〉飛田雄一
本書は、富坂キリスト教センターの研究会「東アジアの平和思想史研究会」(二〇一八年一〇月~二〇二一年九月)の成果である。「平和思想史研究」という学術的な研究会と思われそうだが、本書は研究史の枠を越えて平和の具体的なイメージを与えてくれるものとなっている。
第1章「平和の思想と戦略としての地域形成」(李鐘元)は基調報告的論文。「地域」は単に地理的に決定されるものではなく「創られるもの」であるとして、「東洋」「東亜」「東アジア」「アジア太平洋」へといたる枠組みの変容を論じ、現状と課題について述べている。第2章「中国から見た平和の課題と展望」(謝志海)では、中国から見た平和の課題について、第3章「韓国の平和論と南北コリア平和構築の歴史」(李賛洙)では、「朝鮮半島での平和構築可能性を具体化する理論的土台を築きたい」と論を進めている。評者は日本の侵略に抵抗した「東学」の平和思想史的位置づけに特に興味をもった。ここまでが、第一部「北東アジアにおける平和思想の課題とチャレンジ」。
第4章「パブリックディプロマシーは北東アジアに平和をもたらし得るのか?」(金敬黙)は筆者が「一九七〇年代に日本で生まれ、一九八〇年代から一九九〇年代半ばまで韓国で暮らし、そして、一九九〇年代半ばから現在まで日本で大学院課程に在籍し、NGOスタッフや大学教員として日韓ならびに北東アジアを軸とした平和問題に関連する市民社会の一員として暮らしてきた」という立ち位置を明らかにして論じている。第5章「北東アジアの和解と平和構築を目指す平和教育実践ネットワーク─謝罪と赦しをめぐって」(松井ケテイ)は、「和解と平和構築が目的の平和教育」の必要性を説いている。日本の平和教育は「なぜ原爆が落とされたのかを探求することによって真実に向き合うことになる」という指摘は重い。第6章「権力に抗する─主体的な「連帯」に向けた出会い直し」(大城尚子)は、活動家の聞き取り調査もふまえて論述している。一九七〇年代ごろにベ平連青年としてすごした評者には、なつかしい「沖縄青年委員会」という言葉も登場した。以上が第二部「平和思想と市民社会」。
第7章「キリスト教の「神の国」と平和思想」(神山美奈子)は、「神の国」運動の賀川豊彦、海老名弾正、矢内原忠雄、ヴォーリス、久布白落実の流れの中での分析が興味深い。第8章「台湾の民主化運動における台湾基督長老教会の役割」(黄哲彦)は、長老教会の歴史記述が生々しい。「台湾長老教会は支配者と共に「平和」を保持するのではなくて、民と共に神からいただいた自由と正義を求めている」という。第9章「近代日本のアジア認識と宗教ナショナリズムから見た平和思想の課題」(山本俊正)は、総括的論文。キリスト教の「犠牲の論理」と「贖罪論」の相互関係が重要であることが指摘されている。評者には冒頭の自伝的な「はじめに─私のアジア認識」が特に興味深かった。以上が第三部「平和思想と宗教の課題」である。
以上のほんとうに駆け足の紹介からも、本書がいかに多様な視点を提示してくれているかを理解できるだろう。「話し合いは多く、戦略は少なく」(李賛洙)という記述もあった。評者は本書共通のキーワードは、「対話」ではないかという感想をもった。
飛田雄一
ひだ・ゆういち=神戸学生青年センター理事長