ヒッタイトの歴史と文化 前2千年紀の忘れられた帝国への扉

前2千年紀の忘れられた帝国への案内
〈評者〉石川 立

 創世記二三章で妻サラを喪ったアブラハムは彼女の墓地を確保するために「ヘト人」と交渉している。創世記以外の書物にも見うけられる「ヘト人」とは一体どのような人々を指しているのだろうか。聖書時代の周辺にヘト人を歴史的に確認することはできない。聖書の視点からは、ヘト人は霧の中にあって姿が見えてこないのである。
 本書『ヒッタイトの歴史と文化』(原題:The Hittites and their world, 2007)は聖書の視点から離れて、ヘト人すなわちヒッタイト人に直接目を向け、その歴史や社会、文化の全体像を詳細に紹介してくれる。著者ビリー・ジーン・コリンズは、一九八九年にイェール大学・近東言語文化学で博士号を取得したヒッタイト学の専門家である。
 全体は五章に分かれる。第1章「ヒッタイト研究史の概観」では、ヒッタイトの遺跡の発見とヒッタイト語の解読に始まる研究の歴史が物語風につづられる。欧米の研究者は当初、ヒッタイト語がインド・ヨーロッパ語に属することを認めるのに逡巡したらしい。
 本書の中心である第2章「ヒッタイトの政治史」では、古王国の勃興から帝国の成立、滅亡にいたる歴史が描かれる。ヒッタイトは後期青銅器時代に大帝国を築きあげ、その消滅後も数世紀にわたって近東地域の政治と経済に余波を残した。この章では、夫を亡くしたエジプト女王がヒッタイト王子との結婚を求める(前1327年)逸話など興味の尽きない物語が展開する。帝国消滅後に出現する新ヒッタイト諸都市は、帝国の影響下にあり続けたが、両者は必ずしも連続しているわけではないという。
 第3章と第4章では主に帝国時代の社会と宗教について述べられる。当時のヒッタイトは中央集権下にありながら多文化社会を形成し、他国の主権を認め、現地の宗教や社会の慣習を尊重し、個人の法的権利の公正かつ公平な扱いを保証していた。
 最終章では聖書の中の「ヘテ人」について述べられる。それはカナン住民の一部を表す象徴的な呼び名のようである。ヒッタイトと古代パレスチナ地域との接触については後期青銅器時代の帝国時代にさかのぼる。前十三世紀、帝国崩壊前に八十年近く続いた「ヒッタイトとエジプトの平和」の時代、アナトリアとレバント(パレスチナも含む)の間で、往来可能な国境に促され、多くの宗教・芸術・文学の交流があった。また、職人や訓練・教育を受けた専門的な人的な流れもあったであろう。このような交流によって、帝国支配の柱であったヒッタイトの条約は、神と古代イスラエル人の契約の範になったと考えられる。
 本書は信頼のおける基本的な情報を網羅している。情報量は多いが、よくまとまっており、解説も丁寧である。門外漢にもヒッタイトの全体像を分かりやすく提供してくれる。古代オリエント学を志す者には最適の案内書と言えるし、すでにヒッタイト学に進んでいる者にとっても、従来の学的成果を整理した必読の概説書となるだろう。
 最後に翻訳について。情報量の多い書物なので翻訳も容易ではなかったと察するが、誠実で正確な仕事だと見うけられる。アダ・タガー・コヘン教授の監修のもと、翻訳の労をとられた山本孟氏に感謝したい。

ヒッタイトの歴史と文化
前2千年紀の忘れられた帝国への扉

ビリー・ジーン・コリンズ著
アダ・ダガー・コヘン日本語版監修
山本孟訳
A5判・328頁・定価3300円・リトン
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書き手
石川立

いしかわ・りつ=同志社大学神学部教授

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