従来の和解理解を超える神学的構想
〈評者〉長下部穣
本書は、暴力と断絶が人間関係を深く損なう現実を見据えつつ、従来の和解理解を超える神学的構想を提示する著作である。グローバル化の進展により、異なる民族、宗教、文化、価値観をもつ人々が避けがたく出会う現代において、ヴォルフは、他者への開放性を通じたアイデンティティの再構成こそが不可欠であると論じる。その中核に据えられるのが、排除でも同化でもない第三の道としての「抱擁(embrace)」である。
本書の学術的意義は、主に三点に整理できる。第一に、ヴォルフ自身が紛争当事者として経験した赦しと怒りの葛藤を背景に、和解の神学を抽象的理念にとどめず、暴力の現実に応答しうる実践的思考として提示した点である。ユーゴスラビア戦争の記憶は、暴力が人間関係を破壊する状況において、従来の和解理解がなぜ十分に機能しえなかったのかを問い直させ、本書の議論に切実な具体性を与えている。
ヴォルフの「抱擁」は、自己を開き、他者の応答を待ち、相互的な受容へと至り、なお差異を消去せず、他者を他者として自由にする運動として描かれる。重要なのは、抱擁が他者を自己の側へ回収することでも、差異を解消して同質化することでもない点である。むしろそれは、他者との隔たりを認めながら、敵対によって断たれた関係を新たに結び直す営みである。このモチーフによってヴォルフは、和解を単なる一致や融和ではなく、差異を保持しつつ敵対を克服する関係的実践として捉え直している。
第二に、本書は、アイデンティティ、正義、赦し、記憶を相互に関連づける包括的な神学的視座を有している。アイデンティティは固定的実体ではなく、他者との関係の中で形成されるものとされる。したがって和解は、関係の外面的修復にとどまらず、主体そのものの再形成を伴う出来事である。また、正義は放棄されず、赦しも不正の否認ではなく、暴力の連鎖を断ち切る契機として理解される。この点でヴォルフは、ジョン・ミルバンクやオリヴァー・オドノヴァンの議論と緊張関係を保ちながら、赦しと正義が相互に変容し合う枠組みを提示している。
第三に、本書は、アイデンティティをめぐる政治哲学的議論を神学の地平で展開した点において重要である。自己を保持するために他者を排除するのでも、他者に開かれるために自己を喪失するのでもない。自己は、他者に開かれることによってこそ再構成される。この点でヴォルフの構想は、倫理的責任の非対称性を強調するエマニュエル・レヴィナスの他者論とは異なり、相互性と主体性の均衡を重視している。
さらに、キリスト教精神を基盤として活動する支援団体の従事者の視点から言えば、本書はキリスト教信仰の独自性を「召しの自覚」に見出している点でも示唆に富む。ヴォルフは、キリスト者が他者より道徳的に優れていると主張するのではない。むしろ、神によって抱擁された者が、今度は他者を抱擁するよう招かれている、という理解に立つ。キリスト教信仰の固有性は、善意一般にではなく、神の自己贈与に応答し、他者に開かれる召しを自己の生の課題として引き受ける点にある。
この理解は、現代社会においてキリスト教精神を公共的価値として語るうえでも重要である。それは、内輪の信仰用語として閉じられるべきものでも、無難な倫理的標語へと希釈されるべきものでもない。弱い立場に置かれた人々を社会の外側に追いやらず、異質な他者を同化も支配もせず、尊厳ある存在として迎え入れるための行動原理として語り直されうる。
『排斥と抱擁』は、単なる和解論ではない。他者を排除することで自己を保持しようとする人間の根深い傾向を見据えつつ、それとは異なる生の可能性を神学的に提示する試みである。抱擁とは、安易な融和でも、正義を棚上げする赦しでもない。それは、正義、赦し、記憶、そして主体の再形成を含む困難で具体的な実践である。だからこそ本書は、神学にとどまらず、国際協力、平和構築、多文化共生、宗教の公共的役割を考えるうえでも、なお読み継がれるべき重要な著作である。













