キリスト教的人間観のもつ現代的意味
〈評者〉田中 裕
本書は中世哲学会の二年間にわたるシンポジウムと中世思想研究所の講演会の共同研究の成果をもとに編集された。近代科学の進歩に基づく楽天的な人間中心主義の時代において原罪論に含まれるキリスト教的人間理解がいかなる意味を持ちうるか─これが本書の執筆者達に共通する課題であろう。
宮本久雄による巻頭論文「樹の実の誘惑と根源悪」は原罪論を「根源悪」の問題として考察している。全体主義による人間の自由の疎外と抑圧をもたらす現代社会においてキリスト教的なヒューマニズムの視点を再確認する優れた論考といえよう。佐藤真基子論文「アウグスティヌスの楽園神話解釈に基づく人間観の形成」もまたアウグスティヌスに立返って原罪を論じ、嘘をつく行為のなかに、虚無へと誘われる人間の無意識の欲と、自己の内にあって自己が支配できない人間の内的なありかたを見ている。
津田謙治論文「霊魂伝移説と原罪」は、魂を物体として理解し幼児洗礼を拒絶したテルトゥリアヌスと、魂の物体性を否定し幼児洗礼の必要性を論じたアウグスティヌスを比較している。出村みや子論文「アウグスティヌスの原罪論におけるオリゲネス伝承の受容と変容」は、『罪の報いと赦し』におけるアウグスティヌスの原罪論を、「オリゲネスの聖書解釈の影響とオリゲネス論争の進展の余波」という二つに焦点を合わせて論じている。
矢内義顕論文「11─12世紀における原罪論の展開」は、アウグスティヌス的伝統とアンセルムスの原罪理解の統合をトマスの原罪論に見ている。また、山口雅広論文「トマス・アクィナスの原罪論」は、近代の啓蒙主義のヒューマニズムの楽天的な進歩史観に替わりうるキリスト教的なヒューマニズムの思想的基盤をトマス・アクィナスに見ている。また辻内宣博論文「オッカムにおける道徳の理論」は、オッカムの主意主義的道徳論を論じ、「正しい理の上位原理としての神の命令への従属を、神愛を代表とする神学的な德によって繋ぐ」ものであったと結論している。
山田望論文「ペラギウス派による原罪論批判の本質と女性観を巡る課題」は、ペラギウス派の神学を再評価している。「自発的決断をもって自立的に生きようとする女性キリスト者」を擁護する議論、神の恵みによる自発的決断によって人生を選択することにおいて、男女に優劣はないという現代人にとっても共感を得やすいキリスト教的な男女平等思想の先取りを見ている。
佐藤直子論文「ビンゲンのヒルデガルトにおける原罪論の射程」は、女性神秘家ヒルデガルトの預言的な幻視書「スキヴィアス」のテキストを分析した貴重な労作で、ヒルデガルトが女性預言者としての役割を自覚する第二部に注目し、そこに彼女の独創性を見いだしている。
本書の最後におかれた鶴岡賀雄論文『原罪から栄光まで』は、十字架のヨハネの『霊の賛歌』を論じ、それを現在の「闇夜」の根底に遠い過去からすでに約束されていた将来の希望を先取的に示した「歌ものがたり」として読んでいる。時代の制約の下に古びてしまう概念的な教義学の限界を超えて、根源的なヴィジョンに鼓舞された詩作/思索が時代を超えて現代人にも訴えかけてくることを読者は実感するであろう。
「原罪論」の形成と展開
キリスト教思想における人間観
上智大学中世思想研究所編
A5判・352頁・定価5500円・知泉書館
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田中裕
たなか・ゆたか=上智大学名誉教授