祈りにおける「聖徒の交わり」を信ず 〈評者〉澤 正幸
カルヴァンと共に 祈る日々
ドナルド K・マッキム著
原田浩司訳
四六判・二二八頁・本体二〇〇〇円+ 税・一麦出版社
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著者と接すること
昨年亡くなられたカルヴァン学者の渡辺信夫先生から、本を読む時、著者と一度でもあったことがあるかどうか、それで本の読みが全く変わってくると聞かされたことがある。幸い筆者は一〇年前、ドナルド・マッキム博士夫妻を福岡の地に迎えて数日、親しい交わりの時をもたせていただいて以来、今も、折々にメールのやり取りを続ける仲にある。マッキム博士の著作には顕著な特徴がある。二つあげれば、マッキム博士が編集した『リフォームド神学事典』(いのちのことば社)に見られるように、多くの神学者とのつながりを生かして、論文集や辞典を編纂されること、それと『長老教会の問い、長老教会の答え』(一麦出版社)といった信徒向けの入門書を出されることである。筆者はあるとき、マッキム博士になぜ、いわゆる神学書を書かれないのか質問したところ、自分は何か独創的な著作を生み出すよりも、古今東西の優れた神学者とその著作を多くの人に紹介し、広汎な読者がその信仰的賜物にあずかるようにすることに使命を感じているからだと答えられた。マッキム博士の人柄は実に柔和で、友情に厚く、愛と親切心に溢れている。その人柄が、このたび出版された『カルヴァンと共に祈る日々』からも滲み出ているように思う。
祈りと神学
オランダの神学者ヘンドリクス・ベルコフはその教義学の中に「祈り」の章を設けているが、その章の註で、教義学でまったく「祈り」についての記述のない著作は多いことを指摘している。バルトは神学講義を、礼拝を始めるように賛美と祈りをもって始めたようだが、大学の神学部などでも「祈る」ことのない神学講義を聴講している人は多いのではないか。本書に収められている15 篇の祈りは、すべてそれをもってカルヴァンが聖書講義を結んだ祈りである。神学は生ける神との交わりの中で、聖霊の光に照らされ、認識し、思考し、語るものであることを、これらの「祈り」がはっきりと示している。
デボーションをこえる用い方
著者はこの書をデボーション用に、すなわち信仰者が個人で、日々の祈りの伴侶として用いられるように工夫を凝らしている。これはコロナで巣篭もり生活を強いられている多くの人にとっては、確かに有益な書物であると思う。だが、筆者のささやかな経験を紹介させていただくと、教会の公同の祈祷会の冒頭、この書に収められているカルヴァンの祈りの一つを朗読したところ、祈祷会の祈り全体が引き上げられる思いを味わった。忌憚なく書かせていただけば、祈祷会だけでなく、日本の教会の公同の礼拝で祈られている祈りは、はたしてこれで良いと言える様な祈りになっているだろうか。霊性において貧しいばかりか、神学的、信仰的内容においても、あまりに貧弱なために、聞くものの心が高く引き上げられ、心が燃やされ、会衆が心からの神への賛美に満たされる祈りが聞かれることは滅多にないと言ったら言い過ぎであろうか。礼拝を導く牧師や長老達が、祈りの修練を積むことが今ほど真剣に求められているときはないのではないか。この書を通して、日本の教会に豊かな霊性と祈りの充実がもたらされることを著者が心から願い祈っていることを、覚えずにおれない。
澤正幸
さわ・まさゆき=日本キリスト教会福岡城南教会牧師
- 2024年11月1日