言葉を削ぎ落として 感覚を研ぎ澄ます
〈評者〉並木浩一
著者は日本キリスト教詩人会の会長。多数の詩集と評論によって知られた詩人で、紹介の必要がない。本書は多分、一四冊目の詩集である。著者は日常的な言葉を磨き抜いて、これを硬質な言葉に変える。この人の詩を読むと、何があなたの人生の中でキラリと光っているのかと問われている気がする。
書名に用いられた「短剣符」は、新共同訳の福音書が後代の加筆であると想定される節の削除を示すために用いた記号だが、著者には旧知の当該箇所への注意を促すこの記号が新たな意味を帯びて立ち現れる。それが福音書での節の削除という、存在と非存在との裂け目に不意に姿を現すからである。その気づきが人生の真実への問いに変わる。書名は不思議なフレーズであって、詩人にも読者にも異化作用を発揮する。書名がその意味を簡単には分からせまいとする詩的な高度感を醸し出している。
しかし、こんな抽象的な言葉を並べても、詩集の紹介としては大した意味を持たない。そこで書評としては異例のことながら、実際の詩を引用し、詩集の特質を詩の言葉みずからに語らせたい。詩人は詩集の冒頭に「貴腐ワイン」と題した詩を掲げて、詩集の性格を語る役割を負わせている。紙幅を考えて第一、第二、第五連を書き抜くことにしよう。
はるか昔 預言者イザヤは高らかに伝えている
葡萄の房に果汁を見出したなら
それを腐らせてはならない
そこにこそ祝福があるのだから得心した末に思う
腐らせることにも祝福がある
貴腐ワインを見よ
高貴な腐敗とは 言葉の矛盾ではないか腐敗の賎を経て実りの貴に至るその道のりは
外見の美醜を軽々と超えることで
半乾きの果実の選別にこそ
おのれの覚悟と馥郁とした祝福を連れ立たせるのである
この詩は信仰者の希望の根源を問うている。冒頭、詩人は神がご自身に対して背信を重ねた結果、惨めな状態に陥っている民を見捨てず、良い葡萄の実りを約束するという、神の祝福の言葉(イザヤ書六五章八節)に思いを寄せる。詩人の関心は第三連に入ると特殊な葡萄に向けられる。白葡萄の実に付着したカビによって粒の表皮は腐り、実は皺だらけになって糖度を高め、最後には琥珀色の貴重な「貴腐ワイン」へと変身する。詩人はその「貴腐」という言葉の矛盾に感じ入るが、ふと、「腐敗の賤を経て実りの貴に至る」という道のりに引き付けられる。われわれは単に腐って終わるだけの「半乾きの果実」に過ぎないのではないか。一瞬、緊張が走る。だが思いが飛翔する。「馥郁とした祝福を連れ立たせる」あのお方こそが、真の「貴」に至る「腐」の道のりを歩んだのではないか、と。言外の示唆を密かに埋め込んで、この詩は終結する。
詩人は「あとがき」で、この数年の詩は「物語詩」に傾斜していると認めている。確かにこの詩集の多くの詩は詩人の体験に寄り沿うものであるが、語られた体験や美しいものへの眼差しを語る詩たちの奥底に、解放された生への願いと祈りがある。この静かな囁きを聞き取りたい。
並木浩一
なみき・こういち=国際基督教大学名誉教授