再生者の根源にある「神の似像」を描出
〈評者〉齋藤 篤
以前、ドイツ敬虔主義について会話をしていたところ、ある友人牧師が「敬虔主義は流行らないよね」と言っていたのを思い出しました。その友人がどのような意図をもってそのような発言をしたのかは分かりませんが、いわゆる「敬虔」という言葉に引っ掛かりを覚えるといった内容の会話のなかで、そのような発言があったように記憶しています。
実際、日本において「敬虔なクリスチャン」という代名詞を聞けば、清く・正しく・美しいといった言葉がセットとなって人々の印象に映るかもしれませんし、ややもすれば窮屈に感じてしまうのが、敬虔という言葉に対するイメージなのかもしれません。
そのことを踏まえて考えれば、今般ヨベル社から続々と出版されている『ドイツ敬虔主義著作集』は、実に挑戦的であり、かつ魅力的な試みに他ならないと思うのは私だけでしょうか。この試みは、流行らないと思われがちな敬虔主義の原点にあえて眼を向け、その本質をあぶり出すことで、将来を展望するキリスト教に対して大きな刺激になること間違いなしと、私は思わずにはいられないのです。
さて、昨年十月に出版された著作集の第二巻は、「ドイツ敬虔主義の父」と言われる、フィリップ・ヤーコブ・シュペーナーによる著作である『新しい人間─読みやすい言葉で』(原著・Der neue Mensch In leicht lesbarer herausgegeben)です。
シュペーナーがドイツ敬虔主義の祖であることは教会史を読めば自明なことですし、彼の功績については、さわりの部分はよく知られていることですが、恥ずかしながら、私は彼の著作に触れたことはほぼありませんでした。それだけに本著が出版されたことで、シュペーナーという人物が何を想い、何を目指していたかについて、その息づかいというものを感じ取ることができたのは、まことに大きな収穫でした。
副題の「読みやすい言葉で」は、著者であるシュペーナー本人はそのようなことを目指して著したのかもしれませんが、私の読解力の問題でありながらも、それは決して読みやすいとは言いがたいものであると感じました。しかし、この著作の翻訳を担当された山下和也氏は、非常に丁寧な脚注と訳注をもって解説されており、題名通りの読みやすさを読者に提供しています。氏の労作に心からの敬意を表します。
本著の中心にあるテーマは「神によって新しくされた者としての『再生者』としてのあり方」であると私は受け止めました。何かに束縛されて信仰生活を営まなければならないということが敬虔の意味するところではなく、あくまで神の愛がイエス・キリストを通し、そして聖霊の導きによって私自身に働くときに、私自身が「神の似像」として再生されることで湧出される喜びこそ、再生者の根源にあるということを、聖書の言葉から純粋に語られている。ここにこそ、敬虔主義の本質というものがあるのだ。そんなシュペーナーの声を聴くことができたのでした。