堅実な説教学教科書
〈評者〉小泉健
牧田先生は神戸改革派神学校の校長を二十年にわたって務めました。市川康則先生と共に『改革派教義学』(全七巻、一麦出版社)をまとめ、そのうちの五巻を執筆した組織神学者です。このたび、後藤光三『説教学』の出版以来六十六年ぶりとなる説教学を上梓してくださいました。
説教学は実践神学に属します。本来なら実践神学者が書くべきです。しかし、今日の実践神学は「神の実践」を見失い、「人間のわざ」に傾いていることがしばしばです。説教学も「神の言葉の説教は神の言葉である」(第二スイス信仰告白)ことに取り組むことを放棄して、人間のスピーチとしてのみ説教を考えることが多いのです。右のブリンガーの定式を二〇世紀に発音し直そうとしたのは、実践神学者ではなく、教義学者のK・バルトでした。説教の神学を重んじる者たちは、バルトを出発点にして説教を考察してきました。組織神学者が説教の本質論をきちんと踏まえて説教学を展開することはきわめて重要なことなのです。(本書の「序説」でも述べられているとおりです。)
第一章から第三章が説教の本質論です。説教についての明確な定義がなされます。この定義と、バルトの定義や加藤常昭の説教理解とは、たいへん近いですが、違いもあります。その違いについて考察することを通して、自分自身の説教理解を吟味することになります。
第四章から第六章は説教における「聖書」を扱い、聖書と説教の関係、説教のための聖書解釈、旧約聖書の説教が取り上げられます。第七章は「礼拝」がテーマです。説教学においては、礼拝が扱われないことも多いのですが、礼拝とは何かを考え、その中に説教を位置づけないと、説教の役割もはっきりしません。
第八章と第九章は説教における「説教者」を扱います。説教者論は「職務」と「人格」の二つの柱を持ちます。「職務」は神の召命に基づき、それを受け止めた教会がその人を説教者として任職すること。「人格」はその人自身の資質・能力、訓練、さらには生活全体です。事柄としては「職務」の方が重要ですが、「人格」においてしばしば問題が起こります。それに応じて本書でも、「職務」を先に扱いつつ、「人格」に紙面が割かれています。第一〇章と第一一章は説教における「聴衆」を扱います。
第一二章から第一八章は説教の「方法」を語っており、説教の準備から実際の演述、そして説教分析にまで至ります。第一九章以下は各論で、伝道説教、特別な場合における説教、として特に葬儀説教が取り上げられています。
ここまで概観してきたように、内容は網羅的で、神の言葉の神学の問題提起を受け止めた上で、現代の説教学が組み立てられています。なるほど「改革派」神学に自覚的に立つ部分がありますが、他の伝統に立つ人にとっても有益なはずです。読者は本書によって、説教学の基礎を身につけ、自分なりの説教学を展開するための土台を得ます。この土台にしっかり立って初めて、その後の議論(たとえば、説教における聖書の「演出」という考え方、説教における説教者についての一九七〇年代以降の議論、説教の受容の立場から説教全体を考えることなど)に、神学的にふさわしく取り組むことができるようになります。



















