人間の豊かな主体形成をめざす希望の一冊
〈評者〉田中かおる
本書は、「保育とは何か」という問いに対して、その書名が示す通り、保育とは「子どもの主体性を育む保育」であるべきだと主張している。著者、田澤薫氏は、昨今の日本の行政の子育て支援新制度や保育の無償化、こども家庭庁発足など、子どもを取り巻く制度が大きく揺れているなか、一連の少子化対策は、「子育てする側」の便宜に偏っていることを指摘し、そうではなくて「子どもの側」に立って人間の育ちということを社会が考えていくべきだという視点に立っている。そもそも「人間は社会的な生き物」であり、親子の関係性だけでなく「保育の力が加わり専門職である第三者が介入」(二頁)することが、豊かな人間の育ちに不可欠だと言う。これは「保育とは何か」を考える時に大事な視点だと筆者も考える。保育は「家庭保育を代行する一面」と「親とは異なる専門職が子どもの育ちを支える一面」との双方が揃って「子育て支援」となる(二頁)と、著者は主張する。これは一定時間帯の子育てを代行する物理的な支援(数量的対策)と、子どもの内面にかかわる親子に対する精神的な支援との両面が必要だとの主張でもある。
この視点に立った上で、もうひとつの課題「保育(保護)か?」「教育か?」についても、著者はこう説明する。「社会事業や福祉的な視点をもった保育は、幼児教育を含む」(三〇一頁)。つまり、日本においては、「保育(保護)」と「幼児教育」は、異なる制度と機関によって二元化されてきてしまったが、本来は、「子どもの側」に立てばその両方が必要なことである、との見解である。この双方の要素が取り入れられた「保育」の具体例を、著者は「興望館セツルメント」の取り組みに見出している。
それは、膨大な資料に裏打ちされた示唆に富んだ分析である。興望館は一九一九年に日本基督教婦人矯風会外人部関東部会が設立し、東京の「最も悲惨な地域」で活動を始め、関東大震災後の移転(現在の墨田区京島)、長野県軽井沢への疎開を経て、社会福祉法人興望館として現在も事業を継続させている。この興望館における活動は、終始、子どもも大人も「主体的な参加」が特徴である。例えば、保育日誌には、幼児の主体性が尊重され、自ら考えたり活動したりすることを評価する記述(二一〇頁)が多々みられるし、(現在のPTA活動とは違って)保護者の活動も、あくまで自由参加であった(三〇二頁)ことが記録されている。興望館の「保育日誌」を著者は丹念に読み解いて、興望館の保育は「貧困地域の活動」であったが、その内容は、養護の部分と幼児教育の部分をあわせもっていたことを発見している。また、興望館の保育はキリスト教宣教師とその妻たちの「関与」を受けつつ、主にキリスト教主義の女学校卒業者や保育者養成校・機関で訓練を受けた保育者が担っていた。それは、「子どもが神と直に向き合う構図において子どもに一人の人格として立つことを求めて」おり、「こども自身の内面に拠って立つものが在ることで子どもの主体は育まれ得る」(三〇一頁、傍線筆者)と考えられた教育の展開となった。それが「興望館の保育事業の基盤を成す」と分析している。ここに著者の非常に緻密な資料分析と深い洞察による「過去からの新しい発見」の成果が読み取れる。本書は希望の一冊である。













