真の「現実」とは何か?「真理」とは何か?
〈評者〉藤掛順一
近藤勝彦先生は、二◯二一、二二年に『キリスト教教義学(上・下)』を上梓された。本書は主にその後に執筆された十二の論文や講演を収録したものである。
第一章「『現実』とは何か」にこのようにある。「信仰に生きることは、決して非現実的になることではなく、『復活のキリストの実在』の信仰によって、生ける神の働きによる『真の現実』に即し、真に現実的に生きることである」。復活のキリストの実在、つまり「活けるキリストの現実」こそ「真の現実」であり、それに即して生きることこそ真に現実的な生き方なのである。
「活けるキリストの現実」は生ける神の働き(御業)による現実である。第三章「『神の御業』(Magnalia Dei)の神学」にこうある。「それゆえ神学は、ただ単に神の言葉の神学ではないであろう。そうでなく、神の言葉の神学はまた神の偉業・大業の神学、Theology of Mighty Acts:Theology of Magnalia Dei でもある。そうでなければ、イエス・キリストの十字架と復活に基づく神学ではあり得ないであろう」。
近藤先生は『キリスト教教義学』において、イエス・キリストの十字架と復活による「活けるキリストの現実」の中で歴史を解釈することに取り組まれた。本書の第五章「『勝利者キリスト』をめぐって」にもこのようにある。「しかしもう一つ求めたいことは、歴史における『復活のキリスト』の『勝利』を指し示すことを含む歴史解釈である。(中略)歴史の悲惨や人間の誤りをイエス・キリストの十字架の死のもとに見ながら、キリストの復活の勝利の光のもとに歴史における神の勝利の兆しを見逃さないことも重大であろう。十字架にかかられた方は勝利者だからである」。活けるキリストの現実、即ちキリストの復活の勝利の現実は、本書に収録されている論文や講演の「すべてを貫き、根本のテーマをなしている」(「あとがき」)。
本書は、二◯二四年十二月に、四年に及んだ闘病の末に天に召された静子夫人の記念とされている。「はじめに──夕暮れになっても光ある現実」は、夫人の病が明らかになったことを受けて記された文章である。
「人生の夕暮れにあっても、活けるキリストを仰ぐとき、今、すでに、終末時の光ある現実に対する幾分かの参与の中にある。今、仰いでいるお方が、活けるキリストだからである」。
「わたしたちはこの終末論的二重性を持った『光ある現実』の中に、すでに生かされている。それが活けるキリストの実在を今身近に仰ぐ信仰の日々である。『光ある現実』は、復活者イエス・キリストがわたしたちと共におられる現実にほかならない」。
本書は『キリスト教教義学』の理解を側面から助ける充実した神学講演・論文集だが、それだけでなく、近藤勝彦先生が静子夫人と共に、活けるキリストの実在を身近に仰ぎつつ、「夕暮れになっても光ある現実」を歩まれた、その信仰の告白なのである。


















