「神の言葉か? 人間の言葉か?」この問いに悩む人への一冊
〈評者〉奧田知志
聖書を読み、聖書を語る。それを長く続けてきた。それは対話だった。誰との対話か。当然、聖書であり、登場人物であり、著者だった。何より大切だったのは目の前の人であり、同時代を生きる人々の現実だった。後者が抜けると説教は「聖書解説」で終わり、前者が抜けると「自己主張」で終わる。私は両者の間で彷徨してきたように思う。
K・バルトは「聖書の真理をあなたがたが知りたいと思うのならば、新聞をよく読め。この世の出来事の真相を知りたいと思うならば聖書をよく読め」と言った。聖書は普遍的真理を説く文章であるように見えるが、イエスにせよ、著者にせよ、「時事」の渦中で悩み、考え、「歩き回って善い業を行」(本書42ページ)い、語った。聖書は神の言が肉に宿ったのみならず、人を介することにおいて「受肉」してしまっている。善い業だけでなく、矛盾や身勝手、偏見さえ含んでしまう。だから金科玉条のごとく扱うことはできない。「無謬説(聖書には誤りはない)」という極端な話でなくとも「聖書にはいいことが書いてあるはず」と無理くり説明する。だが無理がある。本書の帯には「神の言葉か? 人間の言葉か?」と刺激的な言葉が並ぶが、私たちは両者の上で股裂き状態のまま聖書を読むしかない。
「排外主義や軍国主義の嵐が吹き、格差は拡大し、あらゆる分野での分断と対立が深まる中で、社会全体の持続可能性がますます失われつつある昨今。このまま行ったら世の中どうなってしまうんだろう」(3ページ)との問いがエフェソ書を読む視座となっている。だから、ちゃんと聖書を読んでほしいと著者は言う。この「ちゃんと」はなるべく丁寧にギリシャ語原典に当たることを意味する。本書に登場する新解釈ともいうべき釈義に圧倒される。 今さら 「エフェソってこんなにおもしろかったのか」と思わされる。
ただ、「原典に当たる」としても「正解」などない。すべては「選択的釈義」に過ぎない。では、著者は何をもって選択するのか。それは現実に対する 「問い」 だと思う。「それがないと聖書は読めないですよ」と教えてくれている。
前半は、「イエス・キリストをくさび石として一つに結び合わされた教会を作ること……教会は神の極彩色に彩られた創造のみ業とその精神を世に証しする光栄ある務めを果たすことができる……現実はというと、相変わらず教会の中にも差別が横行……けれどそれを見て、落胆するな」(70~71ページ)がテーマとなっている。排外主義の時代に読むべき書である。「くさび石」の解釈は秀逸。
しかし後半。「聖書に書いてあることはすべて誤りなき神のことばであるという信仰を僕は残念ながら持ち合わせていません……とても神のことばとしては受け入れがたいことがたくさん書かれています……それらすべてをありがたい神さまのことばとして感謝して受け止めることは、神さまの御心とは反対」(121~122ページ)だと指摘。こんな正直な注解書があったろうか。すばらしい。この矛盾に苦労してきた人に読んでほしい。
「イエスなら、どうおっしゃっただろうか」(129ページ)。著者は問い続けている。答えはない。ないから良い。現実との対話の中、尽きない問答が繰り返される。聖書を読むとは、語るとは、そのような生の営みに他ならない。それを示す本書に心から感謝したい。













