「過激で危険な書物」を読み解く講解説教
〈評者〉辻 学
聖書の言葉が時空を超えて我々に生き生きと語りかけるとは、こういうことかと思わされる読書体験だった。
本書は、深澤奨牧師(日本キリスト教団佐世保教会)による、ヤコブ書の連続講解説教を基にした一冊である。従来このように集中して取り上げられることも少なく、また、とくに二章一四節以下が顕著に示すパウロ批判のゆえに、扱いにくい文書とされ、ルターが「藁の書簡」と呼んだことでも有名なヤコブ書と著者は正面から向き合い、その舌鋒鋭いパウロ批判、教会批判、そして当時のローマ帝国が生み出した社会状況への批判を存分に語らせている。
それを可能にしているのは、著者自身の持つ鋭い批判的視座であることが、各段落の最初に置かれた試訳と語釈からも見て取れる。深澤氏は、辞書や聖書語句索引を丁寧に参照しつつ、ヤコブ書の「溢れる反骨精神を汲み取って翻訳」しようと試みる。「聖書協会共同訳のようにお行儀よく訳し直してやるのはかえって〔ヤコブ書の〕著者に失礼」だからである(二八頁。協会共同訳への批判は随所に見られる)。
深澤氏によれば、パウロ批判は前述した二章一四節以下(信実と行為)だけでなく、ヤコブ書全体に繰り返し現れる。「わがきょうだいたちよ、あなたがたはやたらと教師になってはならない」(三・一。ここでも聖書協会共同訳が批判されている)とは、「やたらと教師風を吹かせ、しかも自分はただの教師どころか、使徒としての地位にふさわしい存在であるとか、大きなことを吹聴して権威を笠に着ている」パウロ大先生への反感の現れだし(一一三頁)、「今日か明日、ここの町に出かけて行こう。そして1年間かけて商売をして一儲けしよう」と言う者たち(四・一三)とは、当時の地中海世界における経済的状況の中で儲けまくる人々を指す表現であると同時に、そこにはローマ帝国内の町々を移動して信者を「儲けて」いたパウロへの批判も込められていると深澤氏は見る。
「持って生まれたことばを生きろ」とは、ヤコブ書のメッセージを実に的確に言い当てた表現だと思う。一章二一―二二節を深澤氏は、「すべての人間には生まれながらにして世界の理であるロゴスが備えられている。それを受け入れよ。それを存分に発揮せよと著者は言う」と読み解く(しかし教会はこの言葉を、伝道によって人間の心に「植え付けられた御言葉」と誤読してきた)。人はみな、小さいもの、弱いものを愛おしみ、守ろうとする神の御心を生まれながらにして持っている。それをヤコブ書の著者は、ストア哲学の用語を借りて「ロゴス」と言い表す。そのロゴスを実践して生きることこそが求められているのであり、そうなっていない現実をパウロとその教会、また教会の背後にある古代ローマ帝国の社会に見たがゆえに、このような厳しい批判を展開しているというのである。
丁寧な翻訳と釈義が、まるでヤコブ書と深澤氏が一体となって語っているかのような迫力に説得力を加えている。著者は、無牧になっている教会の礼拝でこの本が用いられるよう願っているとのことだが(二一七頁)、果たして我々は、「正統派の教会から見れば、過激で危険な書物」(二一三頁)であるヤコブ書を切れ味鋭く説き明かす、この講解説教をきちんと受け止められるだろうか。













