遠藤周作は、終生カトリックの信仰を生きましたが、それでもキリスト教に対して「合わない洋服」と評しています。
私はプロテスタントの牧師ですが、似たような感覚を持つことがありました。それは東日本大震災の時です。地震の直後の被災地に入った際に、がれきの山の前にしゃがみこんでいた初老の男性の後ろ姿を見て、私は言葉を失いました。というのも、この人に、私が信じ語って来た「神は愛です。神は、あなたの罪を赦すために、キリストを、十字架で死なせるまでに、あなたを愛している」という言葉が、虚しく、力がない現実に気付かされたからです。私はうちのめされ、ただ無力感だけが残りました。いったい私は、キリスト者としてどのような言葉をかけられるのか?
この時の経験は、拙書『人生のすべての物語を新しく』(教文館)に詳しく書いてありますが、この経験を境にして、私は、私が信じていた信仰を、徹底的に見直す作業に入りました。その結果が『傘の神学Ⅰ 普遍啓示論』・『傘の神学Ⅱ 特殊啓示論』(共にヨベル)という著作です。
その背景には、現代日本の宣教と教会形成における行き詰り感があります。何よりも、圧倒的な苦難や苦悩、そして苦しみの中ある人に届く言葉をもっていない現実があります。そのことをあの東日本大震災の経験は、私に突き付けてきたのです。
そこから、日本人の心に届く福音の言葉の模索が始まりました。それは、新しい日本の宣教の言葉の模索でもあります。ここでは、その模索に示唆を与える三冊をご紹介します。
その最初の一冊は、田島照久 ・阿部善彦編著『テオーシス──東方・西方教会における人間神化思想の伝統』(教友社)です。
この本は、十五名の研究者の論文集ですので、若干、難しさや読み辛さを感じるかもしれませんが、丁寧に読み進んでいくならば、本来のキリスト教が持つ救いの豊かさに、触れることができるでしょう。
テオーシスとは、「神化」と訳される救済論の一つですが、一言で言うならば、人間が神になるという思想です。もちろん、神そのものになるわけではありません。神の恵みによって、永遠の命や神の聖・愛といった神の性質に与ることです。そしてその根幹には、人間は、神の像に造られたという創造の出来事があります。
西方教会の伝統では、救いの内容を、罪の赦しを中心に理解してきました。その根幹には、人間は生まれながらの罪びとであるという人間理解があります。そして救いの構造は、堕罪─贖罪─十字架という構造です。そのため、神化というキリスト教の真髄ともいえる思想は、わずかに神秘主義に見られる以外には、ほとんど触れられることは、ありませんでした。
しかし、東方教会の伝統(正教会)に今も脈々と継承されています。そこには、人間は神の像に造られているがゆえに、神の似像になるという救いの理解と、創造─受肉─神化という救いの構造があります。
私たち日本人の精神性の中には、人が神となるという感覚が深く根差しています。菅原道真(天神様)の事例や、現在でも、優れた技術を持った人を「神」と称したり、優れた行動を「神対応」と言ったりします。このように、日本人の感覚は、「神化」という思想になじみやすいのです。
もっとも、「神化」は、努力によって獲得するものではなく、神が私たちと共におり、私たちと交わりを持ってくださる中で、私たちの内に起こる動的な変化です。私たちが、神が私たちと共にいるという事実に気付く時、私たちの生の在り方を根底から変えるダイナミックな救いの出来事を見い出すことができます。また、生きる意味や意義、そして目標と力をも見いだせるのです。そのキリスト教の真髄をこの『テオーシス』という本は、深く、教え示してくれるのです。
二冊目は八木誠一著の『宗教の行方──現代のための宗教十二講』(法蔵館)です。八木は、自らの神学思想を「宗教哲学」と呼び、「より善い生き方」「より善い生の在り方」を探求します。この本は、まさにその「宗教哲学」が表されたものです。
八木は、この本の中で、人間の生を表層・中層・深層の三つの層で語ります。表層は、私たちの日常の生活の層であり、中層は神の意思が、イエスにおいて実現している「神の支配」の層であり、深層は、この世界の全てを包摂する超越者たる神の層です。
表層における人間の日常は、人と人との関係によって築かれています。そこには、自分の利益や欲望を満たすために、他者を虐げる現実があります。
八木は、そのような生き方は、人間の本来の自然な生き方ではないといいます。そして、人間の自然な生き方は「神の支配」が人格化したキリストに現れているというのです。つまり、「神の支配」は、キリストと人との関係によって築かれる世界なのです。
この中層の世界の秩序は、私たち人間の心に湧き上がる愛によって導かれます。そして共生と平和を産み出すものです。だからこそ、表層にある生き方から、本来の自然な生き方に移ることの大切さを本書は訴えるのですが、このような主張は、先の神化に通じるものです。そして、深層は、そのような表層と中層を含めて世界の全てを、超越である神の内に包み込みます。
この八木の神学思想の枠組みは、西田幾多郎の哲学です。まさに、日本的神学の一つのモデルが、『宗教の行方』に示されているのです。
ここまで私は、『テオーシス』で救済論を日本的感覚に、『宗教の行方』で、キリスト教的生き方を日本の哲学に繋ぐ書を挙げてきましたが、最後に日本人の霊性に関する書を紹介したいと思います。というのも、宣教は、知的な説得だけではなく、神との生命的な結びつきへと導いて完結するものだからです。
そこで、その試みに最適な書として、金子晴勇著『東西の霊性思想──キリスト教と日本仏教との対話』(ヨベル)を挙げたいと思います。
この書は、西洋の中で育まれたキリスト教の霊性と、日本人の霊性の接点を探求した書です。
この四月に逝去した金子は、西洋キリスト教思想史の大家です。同時に、歴史家の視点でキリスト教における霊性を研究してきました。本書ではディオニシオス、アウグスティヌス、ルターが取り上げられ、後者においては、空海、法然、親鸞、道元、白隠といった人物の霊性が取り上げられます。
金子の霊性理解は、基本的に神秘主義的現象の中に現れる神との合一の経験にあります。いわば、「神、我らと共にいます」というインマヌエルの出来事の実存的経験です。
もちろん、仏教の世界に、インマヌエルという言葉などありませんが、日本人の豊かな霊的感性は、自然を通して超越的存在を感得し、自然との一体感の中で超越的存在との結びつきを感じ、経験してきました。
このような、霊的感性は、鈴木大拙によって自己と自然に沈潜することで無の悟りに至る禅思想を核とする日本的霊性として認識されていますが、金子は、この様な霊性は、思惟によって被造世界から魂を離脱させ、そこにおいて神を認識し、神との合一を目指すエックハルトの思弁的神秘主義に結びつくというのです。そして、そこに共通するキリスト教的霊性と日本的霊性の接点となる恩寵経験を見いだしているのです。実際、先出の鈴木は、禅仏教の研究家でありつつエックハルトの研究者でもありますので、金子の主張は、的を射ていると言えるでしょう。
このような、超越的存在と一つに結ばれるという経験は、日本的感覚と日本的知性(哲学)によって捉えたキリスト教を統合し、生命的な息吹にあふれた日本的キリスト教としての宣教の言葉を生み出す土台となるのではないでしょうか。そのような言葉に紡がれたキリスト教は、もはや「合わない洋服」ではなく「ぴったりと合った和服」ではないかと思います。



















