現代世界の混迷の源を神学的に照らし出す
〈評者〉鏑木政彦
ジョン・ミルバンク『神学と社会理論─ ─世俗的理性を超えて』(原著初版一九九〇年、改訂版二〇〇八年)は、現代神学における記念碑的著作と呼ぶにふさわしい一冊であり、ケンブリッジ大学を中心に展開したいわゆる「ラディカル・オーソドクシー」運動の出発点となった。キリスト教と近代世界の関係に関心をもつ読者に、広く手に取ってほしい書物である。
近代世界とは、どのような世界なのだろうか。マキアヴェリやホッブズの政治学が示すように、近代政治は道徳や宗教から切り離された自律的な領域として構想されてきた。アダム・スミスの経済学においては、資源の分配は市場の自律的なメカニズムに委ねられるべきだと考えられるようになる。さらにデュルケームやウェーバーの社会学では、宗教は社会的統合の機能や価値意識の一要素として説明される。こうした意味で近代世界とは、世俗化のメタナラティブが支配する「世俗的理性」の時代である。上記の社会科学者の理論をさばくミルバンクの腕前は本書の醍醐味の一つであろう。
ところで、近代以降の神学も、ミルバンクの視点から見ると、この支配的な枠組みに適応するかたちで存続してきた。本書では論じられていないが、よく知られたプロテスタント神学者をミルバンクはおそらく次のように評するのではないだろうか。パウル・ティリッヒの神学は、キリスト教と世俗化された文化との関係を相関的に説明しようとするが、それでは世俗的理性は前提として承認されてしまう。ラインホールド・ニーバーは罪の現実を強調するあまり、政治的暴力というマキアヴェリ的な世俗的理性を容認してしまっている。カール・バルトは、世俗と超越の相関主義を拒否する点でミルバンクの立場に近いが、社会を語る存在論を欠き、社会科学に浸透した世俗的理性を神学的に解体するには至らなかった、と。
では、ミルバンクはどのように世俗的理性を批判するのだろうか。評者が重要だと考える点は三つある。
第一に、世俗的理性の起源として、マキアヴェリ的な「異教主義」と並び、ドゥンス・スコトゥスの主意主義神学を挙げている点である。世俗化はキリスト教の外部から生じたのではなく、神学的に構成された問題であり、したがって神学的に再検討されなければならない。ミルバンクは、総じてプロテスタンティズムに厳しい評価を下しているが、それはプロテスタンティズムが世俗的な近代を作り上げる役目に加担してきたからであり、それを乗り越えるには真のカトリシズムが必要だとする。
第二に、世俗的理性に基づく哲学や神学が、ポストモダンに至って差異の存在論を肯定するニヒリズムへと行き着いたという分析である。ミルバンクはニーチェやハイデッガー、フランスのポストモダニストを詳細に検討し、ポストモダンの差異の倫理学がアゴン(闘争)的政治に近づき、ファシズムと区別し難くなる所以を明らかにする。ファシズムは、主意主義的神学が切り開いた近代の行き着く先であり、現代の新自由主義もその一形態にすぎない。ゆえに、それに対抗する理論的ヴィジョンが求められるのである。
第三に、アウグスティヌスの批判的再読を通じた対抗的ヴィジョンの提示である。ミルバンクはヘーゲルやマルクスを近代世界への対抗的思考として評価しつつも、神の実在性を欠いた弁証法は世俗的理性を克服しえないとし、キリスト教のメタナラティブこそが、異教主義と主意主義神学によって形成された世俗的理性を超える可能性をもつとする。世俗的理性は全体と部分、魂と肉体を切断し、個人主義的に解体した世界を力の関係として理解するが、ミルバンクはそれを一つの物語にすぎないとし、愛を核心とする「存在論的平和」という別の物語を提示するのである。
ミルバンクは雑誌『タイム』において、「神学者たちが学術界における地位を取り戻す道を開いた思想的革新者」と評された(二〇〇一年一二月一七日号)。この評価は著者と本書の国際的影響力をよく示しているが、日本における認知はなお十分とは言えない。だからこそ本書の邦訳を心から歓迎するとともに、多大な労力を払われた翻訳者の原田健二朗氏に深い敬意を表したい。













