聖書全体から説く「新たな脱出」としての福音
〈評者〉松本敏之
本書は、N・T・ライトの「すべての人のための~」シリーズの五巻目である。これまでで最も分厚い巻となっており、全部で八九の単元から成り立っている。
本書の大事な特徴の一つは、イエスの働き全体、特にガリラヤからエルサレムへ向かう旅(九・五一以下)を、「新しい出エジプト」として捉えていることであろう。その「旅」は、エルサレム入城(一九・二八)で終わるのではなく、最後の晩餐、十字架と復活へと続き、エマオでの食事へと向かう。多くの単元がそのことに関係づけられる。
例えば、「イエスの変貌」の単元で、ルカだけが「イエスがエルサレムで成就することになっている最期(ライトの私訳、傍点評者)」(九・三一)という言い方をしていることに注目し、次のように述べる。「『最期』(この世を去る)という語は、出エジプトと同じ語です。ルカがこの語を選んだ理由は、エジプトからの壮大な脱出は、イエスが遂げようとされている死にあたるからです。新しい出エジプトでは、イエスがすべての神の民を罪と死の奴隷から導き出して約束の地──全世界が贖われるという新しい創造─へと誘導してくださるのです」(一八一頁、一部略)。ルカ福音書全体、また各単元を、聖書全体の大きな文脈の中に位置づけていることも見逃せない。ライト自身が、「私たちが旧約聖書を、イエスにおいて自然に頂点に達するように見るときにのみ、それを理解することができます」(四三八頁)と述べている。
例えば、「放蕩息子の譬え」の単元では、バビロン捕囚に言及し、次のように述べる。「イエスの時代の人々の多くは、彼らがまだ事実上、捕囚の中にあり、悪の中にあり、暗闇の日々の中にあり、異邦人支配の中で生きていると考えていました。彼らは、神が新しい出エジプトを創出してくださるのをまだ待ち望んでいました。つまり、神が、彼らをその霊的、社会的捕囚から連れ出し、彼らの幸福を決定的に回復されるときです。異国の地で失われていた悪しき息子が、贅沢なパーティーをもって迎え入れられたと語るイエスの話は、イスラエルの希望と関連付けられて聞かれなければなりません」(二八三頁)。
「エマオでのイエスの顕現」の単元では、「二人の目が開け」(二四・三一)たことが、創世記三章で最初の夫婦が禁断の木の実を食べたことで「二人の目が開かれ」たことと関連付けられ、「長い間の呪いが解かれ」、「命と喜びと新しい可能性に満ちた神の新しい創造が……飛び込んできたのです」(四三七頁)と述べる。
また随所に新鮮な解釈がある。たとえば、「マルタとマリアの間の本当の問題は、マルタの台所仕事ではありません。……本当の問題は、マリアがあたかも男性であるかのようなふるまいをしたことにありました」。「(ルカは)イスラエルの民の男女間の境界線を引き直しています」(二〇三頁)というような言葉に、私ははっとさせられた。
できれば一日に一単元ずつ読むなど、じっくりと味わっていただきたい。宝物がたくさん含まれている。説教者にとっても、多くの気づきが与えられ、黙想のよき手引きとなろう。著者の聖書私訳も、示唆に富んでいる。翻訳も優れたもので、訳者の労に心から感謝したい。















