今の生き難い人々の姿を見つめ語られる
〈評者〉島しづ子
北口沙弥香牧師の説教集を読んで、ショックだった。自分はこれほどにイエスと生き難い人々との出会いを鮮やかにお伝えして来ただろうかという反省である。それほどにイエスと出会った人の置かれた情況がテキストに即して生き生きと描かれている。
もう一つのショックは「傷によって共に生きる」(本書24頁以下)の中で語られている「傷」に対する捉え方である。聖書個所はイエスが疑い深いトマスに現れ、ご自身の傷口を示した個所である。この個所から北口牧師は語る。
「わたしたち誰もが傷を負っているのです。そしてその傷は、よみがえられたイエスに傷が残っているように、癒えても残りつづけます。誰もが生きる中で傷を負い、残る傷がある点で、わたしたちは兄弟姉妹であり、家族であります。」(30頁)。「キリストが傷を残してよみがえられたのは、それぞれに傷を持つわたしたちを『傷によって共に生きる』という生き方に招くためだったのではないでしょうか。わたしたちには傷があります。なら、その傷によって共に生きることはできないのでしょうか。傷によって傷付け合うのではなく、それに対して思いやりをもって、愛し合うことはできないのでしょうか。決してそうではないと信じています。」(31頁)とある。
イエスに出会ってすべてが解消するわけではなく、確かにわたしたちには傷がある。その傷によって互いを傷つけ、傷によって無意識に弱い相手を攻撃してしまう。この傷によって人類は悲惨な歴史を重ねて来たようにも思われる。傷を持ったまま、共に生きる、この生き方はいかにして可能なのだろう。
北口牧師が牧師になる決断をしたときに、モデルの牧師がいた。すぐれた傾聴のできる牧師である。その傾聴の持つ力を「マーゴイとしての牧者」(34頁)の中で著者は記す。「癒されなければならない者が『受け入れられた』と体験できるようにすることだと思うのです。人が『受け入れられた』と思えるのは、自分の思いや感情が否定されず、それが届いたと思えたときではないでしょうか。」とある。その項の終わりの方に「傷に塩を塗らずに話を聴ける牧師」という記述がある。辛辣な言葉だが、その通りだ。
「喜びながら自分の道を歩く」(90頁)ではフィリポとエチオピアの宦官の出会いが記されている。そのまとめ部分に「私は聖書が読みがたい(カッコ内省略)と思う人に聖書に隠された宝を伝える教師を志すことになりました。」
とある。フィリポが宦官に心から寄り添い、この宦官が「喜びながら彼の道を生きる」ことへと導かれたように、その人その人の生き方を認め「喜びながら自分の道を生きる」ことができるような働きをしたいと結んでいる。
聖書の中の生き難い人々の声を聞き、今の生き難い人々の姿を見つめ、両方の声を聞きながら語る牧師の言葉に慰められた。「弱くてやさしい牧師の説教集」という副題は本書の内容をよく表現している。ご自分の弱さや傷を隠さず、福音を伝える牧師の言葉に共感するばかりである。週日は介護職をし、テキストに忠実に、優しく語る牧師の働きに感謝している。
島しづ子
しま・しづこ=日本基督教団うふざと伝道所牧師・辺野古新基地建設抗議船船長