「牧師の仕事は楽しくない」と行き詰まっている牧師たちへ
〈評者〉大嶋重徳
本の帯の言葉が目に飛び込んでくる。「牧師の仕事は、楽しい」しかし先日も、牧師を辞めようと思っているという友人からの連絡があった。とても悲しい。牧師の仕事は辛いことばかりだと彼は言う。
この本は、自分から出版社に持ち込んだ企画が本になったと言う。無理矢理がすごい。持ち込み企画で面白いものなんてほとんどないから、私のSNSアカウントに大頭牧師から「この本に文章を寄せてくれますか」と送られてきた時、「いつまでとかありません。いつでもいいです」とあったので、少し放っておいた(PDFファイルだったせいで読みづらかったことも理由だ)。しかし、いよいよ締め切りだという時に、読んで後悔した。面白かったのだ。そして、心から同意した。牧師の仕事は、楽しい。
しかし本文で大頭牧師は、全然「あー、楽しい」とは自分で言わない。どちらかと言うと〝ヘラヘラ〟している。この本には、教会で牧師をしている日常で、出会った人たちが出てくる。火山先生の話なんか、本当に羨ましい。「そりゃ。こういう人と出会えたら楽しいよなぁ」と思えてくる。〇〇こ星人の話は、「一体、忙しい毎日で、こんなやり取りをする時間がどこにあるんだ」と呆れてくる。カーさんや、テキサス氏たちとの読書会も、大頭牧師だからできるんだよ、と思う気持ちも湧いてくる。
しかし本当は、どんな牧師の日常にも火山先生との出会いはあるし、〇〇こ星人もいるんじゃないの? と問いかけてくるのだ。大頭牧師の人を見つめる眼差しが優しいのだ。そして、現役牧師にも「こういう人と時間を過ごすために、牧師なったんじゃないの?」と問いかけてくる。しかし面と向かって言うと恥ずかしいから、照れながら自分を語らずに人を語り、人に語らせて、「牧師の仕事は、楽しい」と表現する。この本は牧師だけでなく、信徒にも、教会にいる人たちの面白さに気づく教会の眼差しを教えてくれる。もっと互いに面白がっていんだよと。そして、もっと聖書の神が開いている世界に向かっていこうと励ましてくれる。
また、この本に出てくる人物の誰も信仰告白へと導かれない。「いわゆる結果」を出さないといけないと、追い詰められたりする牧師への配慮もそこには見える。そしてそういうのが、牧師の手柄に見えることが嫌なんだと思う。だから読む人に、「あるべき楽しさ」というプレッシャーは与えない。
何度もこの本を読むと、この本の向こう側に、若いころ、この大頭牧師はきっと苦労しただろうなという痛みも透けて見える。悔しさや悲しさを、たくさん通ったのだろうと思う。しかしそれは直接会って、話をする時まで「取っておいてね」ということなんだろう。きっとこの本の読者で、牧師になりたいと志す人と大頭牧師は喜んで会ってくれるだろう。「牧師の仕事は楽しくない」と思って行き詰まっている牧師にも、いくらでも時間を割いてくれるのではないか。この人もまた、大物牧師の元へと無理矢理、飛び込んでいった。借りを返す時が来ている。だから恐れを知らずに、飛び込んでいくと、そこで初めて牧師の苦しさを話してくれるはずだ。そしてそんなことがあったとしても、やっぱり「牧師の仕事は、楽しい」と言うに違いない。
大嶋重徳
おおしま・しげのり=鳩ヶ谷福音自由教会牧師