聖書の豊かな教え
〈評者〉鵜殿博喜
この説教集は故吉岡繁牧師が長年日本キリスト改革派仙台教会でおこなった説教のほんの一部である十二の説教を御子息の吉岡有一氏が編纂したものです。そういう意味では御子息の信仰によって選ばれた説教集と言うことができるでしょう。
吉岡牧師は仙台教会の牧師を勤めたあと神戸の改革派神学校の校長を務め、退任後に再び仙台教会の牧師として定年になるまで勤めた方で、巻末にある経歴を見ると、牧師をしながら東北大学で学位を得るなど、学究的な牧師でもあったことがわかります。
この説教集の大きな特色の一つは、二回分の手書きの説教メモが載せられていることです。吉岡牧師の手書きの説教メモは、編者の御子息があえて説教が作られるまでの過程を二回分とはいえ、読者に見てほしいという思いで説教集の中に入れたのでしょう。そこには父親の説教への愛を感じます。この説教メモを見ると、吉岡牧師が聖書を一字一句厳密に捉え、新約聖書が説教の主題となっている場合はギリシア語原典によって聖書をできるだけ正確に理解しようという姿勢が見られ、説教メモがついていない旧約聖書を主題にした説教ではヘブライ語で語の解釈がなされていることがわかります。牧師のみならず私たち一般信徒も完成した説教に至るまでの吉岡牧師の苦労と努力を垣間見ることができます。このようにして作られた説教を毎週聴くことのできた信徒の方々はどれほど幸せであったことか。
十二回の説教はどれも心に響く言葉がたくさん盛られていますが、とりわけ「イエスとユダ」というタイトルの説教では考えさせられました。私たちは一般にユダをイエス・キリストを裏切った悪人と思いがちで、ユダという名前が裏切り者の代名詞のようになっていますが、吉岡牧師は「イスカリオテのユダは大変な極悪人であり、自分たちとは何の関係もないと考えるのは、恩寵によって生かされている信仰者の態度とは言えない」と戒め、「ユダの罪とは何か?」と問います。吉岡牧師の答えは「それはイエス・キリストの福音を拒否したこと。ユダは恵みによって生きる生き方を取らず、自分の力で生きようとした。自分を主とする心。自分の心に合う限りにおいてイエスに従い、信じた」というもので、つまり、自分中心の信仰がユダの罪であり、それは誰の心にもある罪であるということです。吉岡牧師がこのユダを取り上げた説教で言いたかったことは、ユダだけではなく、人はみな罪人であるということ。「ユダは裏切り、他の弟子たちは弱さのゆえに逃げ去った」。「救いは神の恩寵による。ユダはその恩寵を拒否した」。人間の罪と恩寵による救い、これがユダをテーマにした説教の中心と思われます。
もう一つ、「ヨブの苦難」というタイトルの説教をご紹介します。ヨブ記は難しい書です。神に忠実なヨブがなぜ酷い災厄に遭わなければならないのか、なぜ義人であるヨブが財産も子どもたちも失い、挙句のはてに自らの肉体の苦痛までも耐えなければならなかったのか。
最初に神とサタンの会話があり、サタンの挑発に神が乗る形でヨブの物語は進んでいきます。ヨブは悩みます。「信仰のために、神が要求するすべてのことを一所懸命やってきた、そういう者に災いを与えられる神ははたして公平な神なのかという疑いと、神は必ず自分の信仰を見ていてくださるという想い、この二つの想いが交錯して、ヨブは悩み揺れていた」。最後にヨブは神の言葉を聞いて、「この世界におけるすべてのこと、自分の身に起こる幸いなことも災いも全部含めて、神の御手の中にあるということを知ったのです」という結論になります。人間の罪と神の主権という信仰の基本がこのヨブについての説教の中でも語られます。
この説教集は改革派の信徒だけではなく、広く読まれてほしいと思います。そうでなければもったいない。キリスト教の正統的な神学に基づいたとてもわかりやすく、そして考えさせられる説教集なのです。
鵜殿博喜
うどの・ひろよし=明治学院学院長