愛する人を失った悲しみとの和解
〈評者〉本多峰子
愛する人を病や事故で失った時の喪失感と悲しみは、生きている限り誰もが体験し、乗り越えなければならないものである。でも現実には、この悲しみは簡単には乗り越えられないものである。私たちの多くは、誰かしら大切な人の死を心の深くに抱えたままで何年も何十年も、喪失の寂しさを乗り越えられなかった経験があり、あるいは、これからそうした経験をするだろう。
著者W・ロス・ヘイスティングスはカナダのリーゼント神学大学教授で、現場の牧会者でもある。本書は、そのような著者が、27年連れ添った妻シャロンを癌で失った後、何年もその悲しみを見つめ、多くの神学理論や考察を重ねたのちに見出した慰めを、論理的、かつ実存的に語っている。彼は8年間、喪失感を克服することができなかった。しかしやがて神が自分の悲しみを共にしてくれているということ、著者の言葉で言えば「神との悲嘆の共有」に、慰めを見出したのである。それは彼の神学的専門分野である神の三位一体的関係性の考察と結びついた発見でもあった。
人が死を前にした時のショックと悲しみと向かう書は数多い。その中で本書の特徴は、死にゆく本人ではなく、残された者の精神的な苦しみに焦点を絞り、同じような喪失に苦しむ人々の助けになることを意図していることである。著者は自己の体験から、安易な慰めを差し出すことは不毛であると認識している。たとえば、悲しみの中にいる人に、あなたは死んだあの人に天国でまた会える、と言っても、何も助けにならない。むしろ著者は、人間が喪失感と悲しみを抱えたまま、それでも慰めを得ることを言う。愛する人の死はまず、激しいショックをもたらす。これは、相手が前もって死の宣告を受けていても、シャロンのように緩和ケア病棟にいたとしても、同じである。続いて激しい嗚咽と悲嘆が来る。その悲しみを終えることは決してないと、著者は言う。「徐々に激しさは失せてゆくかもしれないが、それを決して乗り越えることはできない。それは生涯、刻まれている。唯一の疑問は、それが、あなたに対して、どのように刻まれるかということである」と言うのである。三位一体の神は人間を関係性の中に造った。他者との関係は私たちを作っている。それゆえ、人間は愛する人を失った時、自分の一部を失う経験をする。
しかし、死によってすべてが失われることはない。人間には神の似姿が与えられ、悲しみを分かち合う同じ神の民も与えられている。「我々が対人関係的な性質をもっていること、神の存在の中に我々が存在していることは、死に遭遇した時に慰めをもたらす。事実上神は、神と死んでいく者との関係を壊さず、そのことは、後に残され、喪失と悲しみの中にある者への慰めにもなる。人は死んでも、神の関係性の中に保たれている。残された者もまた神の内にあり、神とその民は我々の悲嘆を共有していてくれる。
著者は、慈愛に満ちた神から自分がいただいた慰めによって多くの人を慰められるように(Ⅱコリ1・3−4)願って書いたと言う。本書はこの願い通りのものである。
本多峰子
ほんだ・みねこ=二松学舎大学教授、八王子栄光教会牧師