大貫 隆 著 グノーシス研究拾遺(荻野弘之)

グノーシス主義研究の回顧と展望
〈評者〉荻野弘之


グノーシス研究拾遺
ナグ・ハマディ文書からヨナスまで

大貫 隆著
四六判・368頁・定価2750円・ヨベル
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 グノーシス主義(Gnostism)とは『本のひろば』の読者であれば、仄聞した方もおられよう。これは一七世紀に遡る造語(Henry Moore)で、二~三世紀にかけて東地中海地域で発生した、キリスト教の揺籃期における「最初の異端」として言及されることが多い。グノーシスとは元来「知識・認識」を意味するギリシア語で、「自分とは何者か」についての根本的洞察こそが、現世を超越した救済の到来を約束する。その意味では、梵我一如のウパニシャッド以来、東西に広く見られる宗教的認識=救済論の一類型ともいえよう。そしてこの奥義を告げる者こそが、真の啓示者なのである。ただし教父たちからすれば、それは「誤って〈知識〉と称されている」謬説に過ぎず、またウァレンティノス派、バシレイデス派、オフィス派など、様々な分派を含んだ複雑な様相を呈している。
 こうした古代の宗教思想が、どこから生まれ、何を主張し、いかなる影響を与えたかは、実に興味深い歴史の謎に満ちている。本書は、約半世紀にわたって国内外のグノーシス主義研究を牽引してきた著者(東大名誉教授)による論文集。慎ましく「拾遺」と題するとはいえ、明快な説明と(文献的註を含む)学術的な水準とを兼備した堂々たる論文集である。グノーシス主義に興味をもつ初学者にとっても、格好の道標となるだろう。

 とはいえ、グノーシス文書が一般読者の目にふれる機会は多くないし、手近なところで『ナグ・ハマディ文書抄』(岩波文庫)の頁をめくっただけでは、容易にその正体は摑みがたい。そもそも「異端思想」であるならば、キリスト教徒がまともにつき合う意味がどこにあるのか疑問にも思えよう。新約学者でもある著者は、グノーシス研究が新約研究にとって不可欠な関係にあるとする信念から、この二つの領域を架橋する研究を続けてきたが、これは必ずしもすべての聖書学者に共有されている立場とは限らない。この点が説得的でありうるかは、読者各自による検証に委ねられた、本書全体の通奏低音である。

 著者のグノーシス研究は四つの側面から整理されよう。

 (一)「ナグ=ハマディ文書」の翻訳と註解。一九四五年にエジプト・ナイル川中流域のローマ時代の墳墓跡からコプト語のパピルス文書群が発掘された。いずれもギリシア原本からの翻訳で四世紀に遡り、概してその禁欲主義的な内容から近隣のパコミオス派修道院との関係が推測される。これは様々な類型のテクストを含む雑多な文書群ながら、グノーシス主義研究の一次史料として極めて重要なもの。原典から綿密な注解つきで日本語訳された(岩波書店、全四巻+補遺、一九九七年)こと自体が記念碑的な事業である。
 こうした文献研究をふまえて、本書では綿密な考証にもとづく第二論文「『三部の教え』における三層原理」と第三論文「『トマス福音書語録七七』のアニミズム【あるいは「汎神論」(pantheism)と言ったほうがよいか?】」の二つの論稿が収録されている。原初の神々の系譜を饒舌に語るグノーシス神話を整理し、構造化してみせる周到な説明は、まさしく考古学の発掘現場に立ち会っているかのような知的興奮を覚える。

 (二)第四論文「ストアの情念論とグノーシス」は、同じくそこから派生する研究で、著者が最初に手がけた文書『ヨハネのアポクリュフォン』と『ゾーロアストロスの書』を中心に、「動揺なき状態の知覚」(一一九頁)という独特の表現をめぐってグノーシス主義に特徴的な「禁欲主義」の来歴を探ろうとする。独語の著書『グノーシスとストア』(一九八九年)の一部を敷衍する形で紹介される本格的な思想史研究である。
 まずは神話テクストを渉猟して、「現世の牢獄」たる身体全体に宿る悪霊たちの抱く様々な情念が、カタログ化して整理される(二〇四頁)。その上で著者は、こうした神話的情念論の背景に、ストア学派の哲学的情念論の影響を想定する。古ストア派は「蛸の足」のようにイメージされる魂の八区分説を提唱し、また鳥の羽搏に譬えられる、魂の過剰な運動による「誤った判断」として四つの類的情念(恐怖、欲望、苦痛、快楽)を設定し、さらにこれらの混合によって多種多様な情念を説明した。第三代学頭クリュシッポスは何と七〇種ほどの情念を分類したとも伝えられる。
 ただし折衷主義が進行する時代に「古ストア派」として一括される情念論のどの段階を反映しているのかは難しい。「情念の有益性」をペリパトス派とだけ結びつける点をはじめ(二一七頁)、哲学的概念の影響関係史を見積もる点については、依然として多くの課題が残っていると思う。

 (三)本書の中では言及される機会が少ないが、著者は「ナグ=ハマディ文書」以前の研究段階における主要史料であった教父著作の翻訳(エイレナイオス『異端反駁Ⅴ』、ヒッポリュトス『全異端反駁』いずれも「キリスト教教父著作集」教文館)という地味な仕事にも尽力された。正統信仰の側との葛藤や影響は、その精密な史料批判が求められることは言うまでもない。またこうした古典作品の翻訳は隣接分野の教父研究にとっても計り知れない便益を齎すことは間違いなく、同業者としての立場からも著者に深く敬意を表するものである。

 (四)第五-六論文は、文献研究からやや離れて、グノーシス主義の物語論、神話論、解釈学を扱った論稿である。それはハンス・ヨナス『グノーシスと古代末期の精神』(全二冊、ぷねうま舎)の翻訳にもとづく研究でもある。グノーシス研究の先駆者の一人ヨナスは『グノーシスの宗教』(秋山さと子・入江良平訳、人文書院)で、東西の類型の相違を導入したことで名高く、また最近では「世代間倫理」の提唱者として環境倫理学からの関心を惹いている。もっとも『グノーシスと古代末期の精神』(独語一九三四年初版)には「神話的グノーシス」と「哲学的・神秘主義的グノーシス」を区別するなど、ハイデガーによる実存分析的手法の影響を残した解釈学的論点がいくつか埋め込まれている。
 第五論文「グノーシスの変容」では、こうしたヨナスの物語類型の違いの延長線上に「プロティノスは『ゾーストリアノス』の何を拒絶するのか」という問いが立てられる(二七〇頁)。神話による原因譚が神学=形而上学的な語り方に置き換わると、「現世における悪の起源」と精神に対する物質の位置づけはどう問題化されるのか。四世紀以降のキリスト教的〔新〕プラトン主義とグノーシスは何を共有し、どこで袂を分かつのか、という問いでもある。
 第六論文では『ヨハネのアポクリュフォン』の中盤、語り手〔キリスト〕が自分の語っている神話の中に登場して、自己自身に(ただし三人称で)言及している、という奇妙な場面に注目する。神話の語り手が話の中に出現して啓示を齎す以上、神話を読む行為が啓示と等置されるのだ(三一七頁)。著者はこの先をさほど展開していないのだが、書評子には、『ヨハネ福音書』のイエスの語り口に酷似しているように思われてならない。
 そして本書第一章「私のグノーシス研究」の中では、留学中の体験談などを交えて、著者自身について語り出している。ここにも自己言及的な啓示の構造が反映していると見るのは、いささか深読みに過ぎるだろうか。

 グノーシス主義はキリスト教内部で生まれて正統から分派した異端というよりも、本来は独立の宗教的世界観が、中期プラトン主義、ユダヤ教の終末論的黙示文学、イランの伝統的な善悪二元論などと混淆して変成をとげ、それが地中海世界で形成途上にあったキリスト教を含む諸宗教に寄生的な形態をとった例が多い。
 自分とは何者か。それはまさに至高神と同一の本質を宿す高貴な存在なのだ。ただし至高神と現世の創造神(ヤルダバオト)は全く捻じれた関係にあり、この世界は、高貴な存在である自己の出自を忘却させるべく巧妙に仕組まれた牢獄なのである。
 とはいえ、こうした世界観を語る神話は、熱帯の密林に踏み込んだような雑然とした多神教の神々の名前、意味不明の呪文的文言に充ちている。また楽園の蛇やイエスなど旧新約聖書でお馴染みの人物が、全く反転した役柄を演じるなど、陰画のような奇妙な既視感を呼び起こす。複雑怪奇ともいえる宗教思想は、現世に対する否定的な世界観全般を理解するうえでも、重要な示唆に溢れている。
 本書の論述は、明快な主張と、それを支える膨大な考証、方法論的反省とからなる。コプト語の語句の説明や専門的な研究文献への言及もあり、決して平易とはいえないが、学問的・実存的な誠実さに裏打ちされていることは間違いない。

書き手
荻野弘之

おぎの・ひろゆき=上智大学文学部哲学科教授

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