〝あの夜〟の出来事の中
〈評者〉小泉 健
御言葉への渇きがあります。御言葉を聞きたいのに、御言葉を聞き取ることができないのです。説教を通してこそ御言葉をいただきたいと待ち望んでいるのに、御言葉が聞こえてこないのです。
聖書に密着した説教が多くなされています。そこでは、聖書の言葉について丁寧な解説が行われます。それを聞いて、御言葉をよく学ぶことはできます。しかし、自分自身に語りかけてもらうことはないままです。御言葉への渇きは残り続けます。
自分に直接語りかけ、信仰の勧めをしてくれる説教も多くなされています。信仰生活の指針が示され、実行への励ましが与えられます。しかし、それは説教者に語りかけられているのであって、神に語りかけていただくことはないままです。やはり御言葉への渇きは残り続けます。御言葉への渇きを癒す説教とは、どのような説教なのでしょうか。
本書は吉村和雄牧師の説教集です。ここに収められた説教はすべて、吉村牧師が牧会するキリスト品川教会で実際に語られました。主日礼拝での説教もありますが、多くは受難週の木曜日に行われている聖晩餐礼拝での説教です。木曜日の「最後の晩餐」での洗足と聖餐の制定、ゲツセマネの祈り、主イエスが逮捕された後のペトロの否認、そして金曜日の十字架上での主イエスの死など、受難週の出来事に沿って語られた説教が収録されています。
本書に収められた八編の説教すべてに共通する、はっきりとした特色をいくつか数えることができます。その第一は、聖書の言葉との関係です。どの説教も聖書の言葉に密着しつつ、聖書を語り直すことによって、聖書が証ししている出来事を物語ります。その際、ほとんど説明や議論を行いません。驚くほどに明瞭でわかりやすい言葉で主イエスの出来事を語ります。しかも、話は一歩ずつ進んでいきます。この「一歩ずつ」話を進めていくことが、簡単なようで実はとても難しいのです。話が飛躍して聞き手が置いていかれたり、逆に足踏みをして聞き手を退屈させたりすることがよくあります。本書の説教にはそれがなく、たしかな足取りで物語が前進していきます。勝手な読み込みをしたり、登場人物の心理を勝手に推測したりせず、聖書自身が語りたいことをよく聞き取った上での語り直しが行われます。
特色の第二は、説教が語る出来事の中に、聞き手が招き入れられていくことです。社会の出来事がことさらに取り上げられるわけではありません。具体的な逸話が語られることもそれほど多くはありません。もっと直接に、御言葉の前にいる聞き手に語りかけ、どの言葉で立ち止まるべきか、どの言葉を心に刻むべきかを教えます。そうするうちに、主イエスの出来事が聞き手自身の出来事になっていくのです。説教はあくまでも主イエスの話をすることに徹しているのに、その話が聞き手の話になり、聞き手への神の語りかけになっていきます。
ここに、日本の福音主義教会が目指している説教の形が見事に示されていると言えます。派手なところはありません。声を大きくすることもありません。忠実な僕として神の言葉への奉仕がなされています。
小泉健
こいずみ・けん=東京神学大学教授