伝道を支え、活力を与える教義学
〈評者〉井ノ川勝
待望の近藤勝彦著『キリスト教教義学』(下巻)が刊行された。上巻と併せて二三〇〇頁の大著である。これをもって、『キリスト教倫理学』『キリスト教弁証学』と併せて近藤「組織神学三部作」が完結した。日本においては、熊野義孝『教義学』以来の五七年ぶりの教義学の誕生である。著者の話によれば、まだ書き直したい箇所があると言う。その意味で、終末に向かって近藤『教義学』は書き続けられて行く。現代神学を代表するバルト、ブルンナー、ティリッヒ、アルトハウス、ベルコフ、モルトマン、パネンベルク、熊野義孝等と対話をしながら、日本で伝道する教会のために独自の教義学を構築された。教義学は神学の全ての項目を網羅する。一つ一つ積み上げられたレンガを貫く心棒が堅固でないと、教義学は建設されない。そのために緻密で深い神学的思索が求められる。教義学は、イエス・キリストにおける神の歴史的啓示に基づき、それを証言する聖書に従いながら、今現在のキリスト教会の信仰において、三位一体の神の救済史における救いの御業と御支配と御国の到来を認識し、その真理を学問的な手続きと表現によって論述する試みである。「三位一体論的救済史の神学」が、近藤教義学の心棒である。全項目がこのパースペクティヴで貫かれており、新鮮な驚きと発見を与えられる。
下巻は、教会論、救済論、神の世界統治、終末論が扱われる。歴史を生きる教会の存在意味、使命が主題となる。教会論の表題は、「神の国のための神の子たちの共同体としての教会」である。この表題に「三位一体論的救済史の神学」が表されている。神の国のための神の子たちの共同体に連なる出発点は、洗礼という三位一体の神の終末論的御業にある。洗礼者を生み出す「神の教会」を、「神の民」、「キリストの体」、「聖霊の宮」の三つで言い表しているが、いずれも三位一体の神の位格と関わっている。それ故、「教会論」から「救済論」へという順序を辿る。教会論の中に、「教会の使命としての伝道」が位置づけられる。従来、教義学が位置づけなかった主題である。しかし、近藤教義学は一つの項目に伝道論を位置づけるだけではなく、全ての項目において伝道のパースペクティヴで貫かれている。謂わば「伝道的教義学」である。更に、教会論、救済論と終末論の間に、「神の世界統治」を位置づける。三位一体の神の救済史的御業は、教会を通し世界に及ぶ。教会の使命に、「キリスト教の世界政策」(トレルチ)があるからである。従って、弁証学的パースペクティヴで貫かれる「弁証学的教義学」でもある。教義学は教会の自己保存のためにあるのではなく、世界、教会への危機から生まれる。そのために教義学は、教会のいかなる時代にあっても戦い抜く、神学的戦いの土台をなす。戦いは常にここから開始され、ここで支えられ、ここで活力を与えられる。全ては救済史の成就としての神の国における「アーメン、ハレルヤ」という神の栄光をほめたたえる神讃美を目指している。著者の篤い祈りが一つ一つの言葉に込められている。教義学に水野源三の詩が引用される教義学はないであろう。近藤教義学を通し、神学学徒の歴史を生きる姿勢が糾され、新たな召命を得る。近藤教義学の背後には、伴侶の祈りと最良の神学的対話の相手がおられることを忘れてはならない。
井ノ川勝
いのかわ・まさる=日本基督教団金沢教会牧師