奇跡物語の多様な解釈が示す新しい「方向定位の知」
〈評者〉大川大地
「奇跡なんて起きない/そんなことはもう分かってる」。日本の女性三人組バンドSHISHAMOのシングル曲『ほら、笑っている』(二〇一七年)の一節だ。青春の恋心を歌った、よくあるポップソングだが、「奇跡」に対して現代人が持つ距離感と関心の双方がうまく表現されていると思う。日常生活で奇跡が起こることなどまずあり得ない。それでも心のどこかでは惹かれてしまう。だからこそ、音楽を含めたポップカルチャーの世界は「奇跡」の語であふれている。「新約聖書の奇跡物語」の場合も同じであろう。聖書の奇跡が「現実にはあり得ない」ことは、近代科学の世界観を生きる現代人にはもはや自明のことである。それでも、それらの物語は、現代でも多くの読者の心をとらえて離さない。
上智大学の二〇二一年度「聖書講座」に遡る本書には、「日本の新約学会を代表する」三名の学者が、それぞれの関心と方法で「新約聖書の奇跡物語」を読み解いた試みが収録されている(もっとも、使徒行伝の奇跡物語は基本的には扱われていない)。新たな発見と刺激に満ちた、そして分かりやすさと高度な専門性を兼ね備えた良書である。
廣石望「挑発としての奇跡」は、奇跡を信頼に値する証拠と見なす肯定的反応と、あり得ないものとする否定的反応の二つに言及することから始まり、社会学的・文化人類学的視点を加えた歴史批評の方法論によって、この二つの「当り前」を解釈学的に「挑発」する。一方において、伝承史・編集史的な分析は、聖書の奇跡がそのままのかたちで歴史的事実に遡るとするナイーブな歴史観に対する大きな挑発である。他方において、奇跡物語がその伝承の当事者や担い手たちにとって、挑発的な事実として認識されたとする解釈は、それを単なる「作り話」と切り捨てる態度への挑発だ。なるほど、五千人への給食は、「事実によらない伝説」かもしれないが、それでも、この物語は慢性的な食糧不足を生きた古代人には夢のような挑発であり得たし、飢餓が解決されていない現代世界に対しても挑発として機能する。
前川裕「奇跡物語を解剖する」は、歴史批評とは区別される文学批評ないしは物語批評を用いた奇跡物語の「解剖」を通して、その「より豊かな読みを示唆」してくれる。前半の方法論的解説は、良い手引きの役割を果たしてくれているし、特に廣石が扱う物語のすべてが前川によっても分析されていることは、読者にとって大変有益である。実際、両者の論考は互いに補い合っている。たとえば前川がある物語のある場面について「非常に劇的かつ急速に展開する」とか、あるいは「空白」があるとコメントする頁があるが、それらはおそらく、廣石が提示する物語の標準的な場面構成のモチーフとの比較から与えられる視点である。
プロテスタントの評者が最も多くを学んだのが、川中仁の論考だ。前半ではローマ・カトリック教会における奇跡理解の変遷の歴史的過程が、教会の複数の公文書の丁寧な分析によって辿られる。そのうえで彼は、ヨハネ福音書の奇跡物語の神学的・物語的分析に取り組む。それを通して提示される結論は、第二バチカン公会議の奇跡理解と軸を同じくする。すなわち、論考のタイトルが示すように、また論考内で幾度も繰り返されているように、奇跡は「神の救いのわざの『しるし』」として理解されなければならない。ただし、ヨハネ福音書の読解において「神学的-物語的解釈の優位性」を堅持すべきとの川中の意見に、解釈の方法論の「どれかがより優れているというわけではない」とする前川は賛成しないだろうし、評者も全く同意しない。神の救いは歴史のただ中に啓示されたわざであって、その歴史への取り組みを欠いたままでは「神学的な意味内容の把握」は不十分である。それが「真の読解」だとは思われない。
新約聖書の奇跡物語が多様であるように、その解釈方法も多様である。とくに、「奇跡なんていらない」(SHISHAMOの曲の続き)と思っている人にこそ、本書と巡り会う「奇跡」が起こってほしいと願う。奇跡物語の多様な解釈─「挑発」「解剖」「しるし」─が、新しい「方向定位の知」を示してくれる。
大川大地
おおかわ・だいち=ウィーン大学プロテスタント神学部博士課程