「無国籍の伝道者」の生涯を描ききる
〈評者〉鈴木範久
数年前のこと、フルベッキの研究をしたいとの要望を告げて来訪されたときには驚いた。なぜなら著者は、すでにマリリン・モンローや孫正義の伝記作家として著名な作家だったからである。それが、どうして両者のような華々しい人物でなく、一転、「無国籍の伝道者」フルベッキのような地味な人物の研究にひかれたのであろうか。
このような謎を抱いたまま何年かが過ぎた。途中では、経過報告のようなかたちで、フルベッキの新しい手紙をアメリカで見つけたとの便りや、新潮社の雑誌に掲載された伝記の一部の送付はあったが、なかなか一冊の書物にはならなかった。
それが、ようやく今回一冊の大著として公刊されたのである。一読し、また驚かされた。
まず、フルベッキの生国オランダに出かけ、その故郷の教会で、さっそく青年フルベッキの新たな手紙を二通入手している。ひとつは叔父にあてた長文の手紙で、音楽志望を表白している。もう一通は、その後しばらくして書かれた叔父夫妻あての手紙で、それには母の死が報告されている。
母の没後、まもなくアメリカに渡ったフルベッキは神学校に学び、一八五九年、開国早々の日本の長崎にアメリカ・オランダ改革派の宣教師として来着。同地のアメリカ監督教会の宣教師C・M・ウイリアムスとは親交を結んだ。長崎に佐賀藩が設けていた学校では同藩士の大隈重信、副島種臣らを教えた。従来、西郷隆盛をはじめ維新の志士たちの「勢揃い」とみられる群像写真に関しては、その反証をさらにくわしく紹介している。
一八六九年、開成学校(のちの東京大学)設立のため上京。大隈重信、岩倉具視にはたらきかけ、一八七一年の岩倉遣米使節派遣をもたらす。結局、これが日本における信教自由の大きな機縁となったことを考えると、フルベッキの果たした役割はきわめて大きい。
著者はフルベッキの聖書翻訳についても詳述、C・M・ウイリアムスとともに担当した旧約聖書詩篇に関し、その日本語力を実証している。
フルベッキと同じ年に来日した数少ない宣教師として、今日、ウイリアムスは立教大学の創立者とし、ヘボンもまた妻とともに明治学院大学の創立者の位置づけがなされている。これに比し、フルベッキは具体的な学校こそないが、早稲田大学の創立者大隈重信に与えた深い影響からみるとき、同校の学祖にあたるとみてよい。このことが本書の行間からは読み取られる。
最後の「伝道者」と題された章では、フルベッキが、もはや日本の政界、学界からは無用の人物とされながら、本来の一介の伝道者として地方に出掛け日本語で教えを説く地味な姿にページが割かれている。病気と闘いながら、最後まで宣教師として日本で世を去ったフルベッキの人生と姿とに、改めて思いを深くさせられる一書である。
鈴木範久
すずき・のりひさ=立教大学名誉教授