われわれにとっての「エジプト」「バビロン捕囚」とは何か?
〈評者〉左近 豊
膨大な読書量(小説から神学書に至るまで)と緻密な聖書学的識見に加えて、教会と教育における繊細で思慮深い牧会経験に裏打ちされた説教集である。著者は、イザヤ書研究の第一人者として多くの専門研究を手がけつつ、同時に阿佐ヶ谷教会、石神井教会で三五年間牧師として教会形成と牧会に当たり、さらに青山学院大学で二五年間、若い魂と向き合い、献身者を送り出してきた多彩(才)で一途な伝道者である。
「出エジプト記」と「イザヤ書」を一つの説教集で結合させる視点は、聖書全体が語る神の熱情に打たれ続けてきた著者ゆえのものと言えよう。イザヤ書四〇章以下には、バビロン捕囚からの解放と故郷への帰還を、「新しい出エジプト」として、モーセによる出エジプトで働かれた神を思い起こさせながら、しかも過去の救いに希望を見いだせずに冷え切って頑なに閉ざされてしまっていた捕囚民の心にねんごろに語りかける預言者の言葉が響いている。不正や不条理に晒され慣らされるうちに意気消沈し、抗う力も失せて、唯々諾々と暴虐にも権力にも屈従せざるを得ない世代の魂を捨て置かれない、むしろ発せられる言葉にも、声にならないほどの小さい叫びにさえも耳を傾け、たぎる熱情と憐れみをもって、天を裂いて降って救う方の臨在を、本書は今日の世界に向けて生き生きと語る。作家・高橋たか子の『装いせよ、わが魂よ』や映画「少年の日の思い出」などからの引用が、読み手にイザヤの言葉のインパクトと慰めに満ちた響きを今に想像させる助けとなっている。
著者は、「出エジプト」の救いの波紋が同心円状に紀元前六世紀の捕囚期に救いの波となり、この解放と自由が波状に信仰共同体に継承、増幅され、今日の世界に迫り寄せる出来事であることに気づかせる。二一世紀前半を生きる者にとっての・エジプト・、そして・バビロン捕囚・状況が鋭く抉り出される。例えば、放射線による汚染と加速する地球温暖化によって住み慣れた社会や共同体を追われる現代人の故郷喪失状況に、現代版バビロン捕囚の現実を見る視界が開かれる。また核兵器の抑止力による有無を言わせない鬱屈した状況は、・ファラオ・の専制的支配の下で生きざるをえない無力と重ね合わされる。エジプトの奴隷の家に、そしてバビロン捕囚の民に語られた旧約聖書の言葉は、見知らぬ異国の遠い過去の記憶の記録ではなく、COVID-19とウクライナ戦争の影に生きる私たちの今にこそ語りかける生ける神の言葉であることが開示される。
イザヤ書五六章以下の言葉を担った「第三イザヤ」について、レンブラントになぞらえながら、「対象の暗さについてはどこまでも現実的に、しかし、それへの関わりにおいては光を見失わずに生きる」預言者であったと述べる(一二七─一二八頁)。捕囚から解放されてもなお色濃く現実を覆う深い闇の中にあって、六〇章以下の言葉は、レンブラントの絵画に差し込む光に例えて語られる。神の言葉は、聞くだけでなく、見るものとされる。さらに高俊明牧師の詩によって、祈りと和解に生きる信仰者の進む道が照らし出される。その光に主イエスを仰ぐ信仰が証しされる。聞き、見、従い、信じる道筋が一筋の光で貫かれてゆく。
左近豊
さこん・とむ=美竹教会牧師・青山学院大学教授