生まれてはじめて読んだ聖書は真っ白でした。大学一年の時でした。ある日郷里の彼女から届いた手紙には「あなたとお付き合いするのはやめます」とありました。ガーンと頭を殴られ、それでも読み進めると、手紙の最後に「私は聖書の中のコリント人への手紙第一の13章が好きです。」聖書……?探していると、友人が「入学式のときにもらったよ」と言います。ところが、彼のその聖書は押入れの奥に汚い物と一緒に漬物状態になっていて、赤い表紙がカビで真っ白だったのです。雑巾でゴシゴシしてから目次を開き、彼女が言う個所を探しました。「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。」もう一回ガーンと殴られたようでした。「お前のは愛じゃない」と言われたのです。更に「愛は礼儀に反することをせず」云々。ああ、自分には愛などなかったのだと知りました。
その翌年、その聖書をくれた友人が引越しするというので手伝いました。アパートのごみ焼場の灰の中に黒こげの文庫本が落ちていました。カバーは前面が焼け落ちて、裏面だけが残り、本体も半ば焼け崩れていました。誰かがここで焼いたのです。それでも、書名は分かりました。三浦綾子の「塩狩峠」。それから二年後、大学院入試で全部落ちて、生死の境を彷徨う病気をして、もう死んでしまいたいほど心身ともに疲れ果てた私が、なぜか手にとって読んだのが「塩狩峠」でした。馬鹿な死に方をする男の物語が書かれていました。それが21年後大学教授の椅子を捨てさせる本になりました。
カビだらけになったり、黒こげになったり。それは人生のようでもありますが、本というものは、その力で人を掴まえて、引きずりまわして裸にし、遂には黒こげになるまで許さないものなのだと思います。でも、ちゃんとお仕舞にそこまで行ければ、めでたしめでたし。
(もりした・たつえ=三浦綾子読書会代表)
森下辰衛
もりした・たつえ=三浦綾子記念文学館特別研究員