神の愛に貫かれ、聖徒たちとの共同作品である説教集
〈評者〉徳田 信
焚き火を囲んで聴く神の物語・説教篇
何度でも何度でも何度でも 愛 民数記
大頭眞一著
新書判・264頁・定価1210円・ヨベル
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初めてキリスト教に触れる人々に、どうしたら聖書の豊かさを味わってもらえるだろうか。評者はキリスト教学校の新米教員として、日々そのことに頭を悩ましています。
さいわい創世記から出エジプト記にかけては興味深い物語の宝庫。お勧めしやすいです。しかしレビ記あたりになるといけません。細かな決まり事ばかりが目に付き、私自身が聖書を閉じたくなります。民数記も同じ。第一章目からイスラエルの民が何人いるか数え上げていて、睡魔が襲ってきます。
しかし本書を読み始めてハッと目が覚めました。その細かな人数についての解き明かしを読むと、胸が熱くなり、涙がこみ上げてきました。注目されるのはイスラエルの民が概数ではなく、「何万何千何百何十何人」と細かく具体的に最後の一人まで数えられていること。大頭牧師は初任地で礼拝出席者の人数ではなく、一人ひとりを数えることを学んだと述懐します。そして、神が関心あるのは数の大小ではない、私たち一人ひとりなのだと訴えかけるのです。
ひとが説教者として聖書に取り組む場合、学問的知見から学びつつも「客観的に」読もうとはしません。読み手自身と聴衆を聖書物語の内部に見いだし、共に神と向かい合うべく取り組みます。その際、決定的影響を与えるのは説教者自身が培ってきた神観です。
大頭牧師にとっての神は、裃を履いて遠くから顔色を伺うようなものではありません。パウロが親しく「アバ、父よ」(お父ちゃん)と呼ぶことのできた父なる神です。この世の父親はいざしらず、聖書の描く父なる神は、子どもたちが何か失敗したとしても決して捨て去ることはありません。ご自分の愛のうちに戻って来ることをどこまでも待ち続けます。あの放蕩息子の父のように。
民数記に描かれるイスラエルの民は、モーセや補佐役のアロンやミリアムを含めて繰り返し不信仰に陥ります。しかし神は、何度でも、何度でも、何度でも、愛を持って関わり続けるのです。もちろん、神の愛を疑いたくなるような場面も登場します。約束の地カナン到着まであと数日のところで、神はイスラエルを40年間も荒野でさまよわせました。それはモーセら指導者と民の不信仰ゆえでした。
しかし大頭牧師によると、それは単なる罰ではありません。民がカナンの地で神だけを信頼し、しっかり歩めるよう荒野で鍛錬するためでした。信仰とは信頼ですが、神にまったき信頼を置くことは簡単ではありません。大頭牧師の表現によれば、誰であれ常に「工事中」なのです。ゆっくりとしか進めないことを神はよくご存じです。ですから、何度でも、何度でも、何度でも、愛をもって関わろうとします。「私の愛に信頼して欲しい」と願って。
神が忍耐をもって愛し続けているのは、掛け替えのない、私たち一人ひとり。大頭牧師の説教集に貫かれているのが、この神の愛に対する確信です。そのことは、大頭説教集の特徴として、製作に関わった人たちが、中には写真付きで丁寧に紹介されているところにも表われています。私自身、紙幅が許されるならば著者の思いを汲んで、紹介されている一人ひとりの名前を挙げたい思いに駆られました。
かつてスタンリー・ハワーワスという神学者は「英雄」と「聖徒」を区別しました。英雄は一人孤高に業績を達成し、社会に対して自分を印象づけようとします。他方、聖徒は神のわざを「ともに」行うことで神の恵みを分かち合います。本説教集はそのような聖徒たちによる共同作品です。
徳田信
とくだ・まこと= フェリス女学院大学教員・大学チャプレン