新約聖書学の最新の議論を知る一冊
〈評者〉石橋誠一
本書は日本新約学会が、第四代会長を2009年9月から17年9月(「献呈の辞」と「あとがき」にある「2016年春」は間違いとのこと)までの8年間務められた青野太潮先生への献呈論文集として編んだものだ。編集意図や青野先生の業績については、第五代会長を務めておられる大貫隆先生の愛に溢れた「献呈の辞」に詳しい。また、青野先生の詳細な履歴・業績一覧も付されている。日本新約学会はじめ諸所で精力的に活動されている方々による18本の論文が収録されているが、紙幅の関係で全部は紹介できない。私が特に関心を持った数本を紹介したい。
第一論文の「イエスと初期ユダヤ教神秘主義」は、青野先生と「畏友」と呼び合う大貫隆氏によるものだ。「復活問答」と呼ばれるマルコ12・18―27の、復活者は「天使のようになる」との言葉に表れるイエスの「復活」のイメージが、聖書神学の常識の、身体と魂を一体的に考えるヘブライ的人間観に反することをいかに解決するか。氏は「アブラハムの遺訓」などイエスに相前後する時代のユダヤ教文献に見られる「上昇の黙示録」のイメージがイエスのイメージ・ネットワークの中に独自のしかたで組み込まれていることを示される。その上で上記の問いにどう答えておられるかは、「むすび」を読んでいただきたい。
同じ「復活問答」について、それを伝えるルカ福音書の編集意図を探った論文が、大澤香氏の「神の所有としての生」である。大貫論文とは関心が大きく異なり、復活についてイエスがどう捉えていたかということには一言も触れられていない。福音書執筆に際して中心的な資料としたマルコ福音書を、ルカはどう改変し、その意図は何だったのか、そこにルカのどのような神学的思想が見出せるかという「編集史研究」と言える。氏は、ルカ福音書に固有の20章38節にある「神によって生きる」と訳されたギリシャ語の表現が七十人訳聖書やフィロン、パウロなどの先行文献でどう使われているかを丹念に調べ、ルカがこの句を加えた理由は、女性の命が「男性の所有」ではなく「神の所有」であるとの関心を表明するためだったと結論する。
青野先生のご専門のパウロ書簡に関するものでは、大川大地氏による「パウロにおける『自己スティグマ化』の戦略」が面白かった。自己スティグマ化とは、社会の中で否定的な価値付けをされた(スティグマ化された)者が、スティグマを逆に誇示することで自己の社会的な影響力(カリスマ)を拡大させることを言うそうだ。ガラテア4・12―15とフィリピ二・25―30(288、290、291頁に一箇所ずつ、二章とすべき所が四章と誤記されている)を取り上げ、パウロが弱さ(スティグマ)を戦略的に「用いる」ことで、自らとエパフロデトスをカリスマ化したとする議論は、青野先生が繰り返し主張してこられた「十字架の逆説」を生きる信徒の生の具体を、非常によく示しているように思われる。元ホームレスの方々が自身の野宿経験を語ることで子どもたちに「生きてさえいれば、いつか笑える日が来る」と伝えている「生笑一座」の活動(NPO法人 抱樸 のホームページ参照)も、自己スティグマ化の例と言えるのではないかと思わされた。新たな視点を与えられたことを感謝したい。
石橋誠一
いしばし・せいいち=東八幡キリスト教会牧師