P・T・フォーサイスを21世紀にどう読むか
〈評者〉小嶋 崇
P・T・フォーサイス 聖なる父
コロナの時代の死と葬儀
川上直哉訳著
新書判・216頁・本体1100円+ 税・ヨベル
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この書評の文章を読んでいただければ分かるように、専門的で批評的なコメントは少ない。そもそもフォーサイスの名前は聞き及んでいるが、説教や神学エッセイの別に関わらず彼の文章を一つたりとも読んだことのない者が評者を引き受けたのには、かすかにフォーサイスへの関心があったからと言えなくもない。一通り読んで抱いた率直な印象をまず述べておこう。
本のタイトルが示すように、フォーサイスは「父なる」神の「聖性」を「キリストの贖罪」との間でどう関係づけるかに多大な関心を寄せている。一方で「父のような神の愛」の人間中心的で感傷主義的な理解への懸念を持っている。他方で超越的な「神の聖性」への問題意識を持っている。神の属性として見た場合の「愛・慈悲」と「聖性」はどう一つの人格の中で統合されるのか。そういう神論的な課題がある。
もう一方で人間の罪に対する「神の赦し」が孕む「正義」対「罪性」という困難な贖罪論的課題がある。
旧約聖書の限界はここにあらわです。旧約聖書が語る「父のような神」は、代償を求めません。また、犠牲を払いません。これは新約聖書と対照的です。新約聖書の語る神、つまり「聖なる父」という神は、ゆるしの代償を求め、そしてご自身でその犠牲を引き受ける神として表現されているのです。(45頁)
1848年生まれのフォーサイスは、1876年から1901年までの25年間を牧師として過ごし、それ以後1921年に亡くなるまで神学校で働きながら神学だけにとどまらない幅広い出版活動を展開する。(本書のイントロに1901年になされたフォーサイスのインタヴューが収録されている)。
フォーサイスが問題視する「『父のような神』の矮小化」は、一方で自由主義神学の隆盛や世俗主義の進行と深く関わり、他方で伝道熱心で言葉の多さや巧みさで福音を安売りする説教や神学が背景にあるように思う。
社会的配分を公平にすることに、私たちは神をこの世の裁判長としてしまいつつあるようです。また、それへの反動が生まれ、締まりのない甘すぎる愛を神に求める方向へと進む向きもあります。実に、神の聖性という概念は私たちの助けとなります。私たちはこの概念によって、霊的にも人格的にも一定水準を超えて引き上げられ、「父性的聖性」とでもいうべきものへと進むことができるのです。(46頁)
福音に触れれば触れるほど、このキリストの沈黙が印象深く思われてきます。私たちの周りには、魂を得ようとして熱烈に飢え渇くタイプの人々がいます。宗教的熱情に燃え、伝道にはやり、忍耐を失った敬虔さを示す人々がいます。そうした人々は弁舌爽やかで、活動的です。……エネルギーに溢れてしまって、霊感に乏しくなっている。何でも表現しようとして、すぐ言葉を発し、行動に移す。(105頁)
本格的な神学議論というよりカンバセーショナルで社会や生活の実際例をふんだんに用いたフォーサイスの小著は、しかしなかなか深く掘り下げられた論考という感想を評者は持った。川上氏による訳と註、さらに神学的考察を実際に適用した解説(「現場の神学」)「コロナの時代と死と葬儀――『聖なる父』の現代的意味」はその意味でフォーサイスの神学的実践の今日的実験として本書の意義を豊かにしている。
小嶋崇
こじま・たかし=巣鴨聖泉キリスト教会牧師