医療現場で病を担うイエスの探究
〈評者〉阿久戸光晴
病と信仰
病を担うイエスと生きる
黒鳥偉作著
四六判・141頁・本体1300円+ 税・日本キリスト教団出版局
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あらゆる特権を投げ捨て、北海道の『地域医療』奉仕に赴かれた黒鳥偉作氏の力作集である。「病を担うイエス」を主軸にまとめた著書であり、2部構成をとる。第1部では第二イザヤが告げた「苦難の僕」と「病を担うイエス」「病を告白したパウロ」との関係を考察し、さらに「塵と灰の中を歩んだヨブ」を振り返り、第2部では氏が尊敬される故平山正実先生の信仰と、先生が共感されたH・ナウエンの信仰を考察した。
私たちはお預かりしている教会員や学生らが病に倒れた時「自分になぜ癒せないのか」との苦悩に陥ることがあり、主イエスならどう対応されたかを問う。しかし第二イザヤが告げる「苦難の僕」は苦難を自らのものと受け止め、苦難を避けず苦難を担う者の姿にこそ神の栄光が顕わされると告白する。著者が引用されるとおり、その姿は「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(マタイ8・17)イエスの生そのものであった。周りの人々は苦しんでいる人を「神に見捨てられた人」と見るが、第二イザヤは「そのような者こそ神の人へのとりなしを引き出し、そこに神の栄光が顕わされる」と捉え、そのことはやがて主イエスにおいて受肉される。ここで苦難の意味が劇的に変わる。すなわち苦難は神の罰ではなく、この地上のすべての者の痛みを引き受ける愛のわざになる。病を誠実に苦しむ方こそ、神に愛され恵みを受けるに相応しい癒し人である。
次に「自分の身に『トゲ』があり、『弱さを誇る』」(Ⅱコリント12・7〜9)とまで告白したパウロである。その論拠を著者は「パウロの背後に『病を担われるイエス』がおられ、パウロ自身イエスの十字架を受け入れたから」と見ている。つまり病の苦しみが十字架の主と私たちを結び付ける。著者はここで或る患者さんとの素晴らしい出会いを私たちに紹介する。ここで著者は少しもご自分を誇っていないが、読む者は著者の信仰と人格に触れることになる。
さらに著者は病に苦しむ者にとっての「安息日の考察」に入り、「安息日にも人を癒された主イエスを喜ぶ」ことが起きていると見る。ここで私には、ネヘミヤ記8章10節「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」が想い起こされた。第1部の最後は「ヨブ」で締めくくられる。著者は「ヨブの苦しみを理解せず、通俗的宗教観で荒々しく語ってしまった3人の友人」のための赦しを神に願い、塵と灰という苦難の中で神を求めるヨブに注目する。第1部は、病を担われる方こそ「神とともに歩む創造的人生を歩み、神の大いなる祝福を受ける方」であり、その方こそ「病の人を下から支える超越者主キリスト」であり、主キリストと結ばれた病の方であるとまとめられる。
第2部では故平山正実先生の信仰に裏打ちされた学問的視点「患者の視点から医療を考える」主題が展開される。医療は今でも「悲しみを避ける」という視点が支配的だが、先生は「悲嘆・苦難の創造的意味」を展開し、「病む者の信頼と癒す者の謙遜によってこそ両者の創造的信頼関係が築かれ治療が達成される」と主張された。また先生は診療室を祈りの場であると捉え「見捨てられ感」をお持ちの方に寄り添われた。先生の最後の問題提起の本質は「死者の救い」であったと著者は言う。著者によれば、それは神の領域ゆえ慎重な考察が求められるが、主と出会えず受洗せずに亡くなられた方や自死者などの救いを真摯に祈られたゆえの課題であった。すなわち主は死者との和解・その救いのため陰府に降られたと受け止め、ここに神の究極の御心があると先生と著者は告白する。最後に先生が尊敬されたナウエンの臨死体験と信仰を採り上げる。特にナウエンは老いの意味を「生きる意味が徐々に明らかになって行く恩寵の過程」と捉えたと見る。
一読して私は、本書があのコロサイ書1章24節「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たす」の意味を明らかにしたと受け止める(私たちが安易に病を癒せない意味もここにある)。著者は平山先生への深い敬服のもと病の人々と共生することをとおし、「病に寄り添うキリスト」の存在を明らかにした。本書を広く、特にコロナ禍等で身近に病の方がおられる方々にご一読いただくことを薦めたい。
阿久戸光晴
あくど・みつはる=福岡女学院大学学長