多彩なユダヤ共同体の長い歴史から生まれた祈りの数々
〈評者〉勝又悦子
ユダヤ教の祝祭についての平明な解説でも知られる吉見崇一氏による、ユダヤ教の祈りの解説書である。日本においてはシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝所)の数はごくわずかであり、映画や動画でユダヤ教の礼拝を見る機会も殆どない。そんな状況の中、一〇〇をも超えるユダヤ教の様々な祈りを日本語で詳細に知ることができるのは、非常に有難いことである。
礼拝というと、司式者のもと同一のスィドール(祈祷書)で一斉に厳かに進むというイメージがあるかもしれないが、およそ、その真逆にあるのがユダヤ教の礼拝である。シナゴーグの入り口には様々な種類のスィドールが雑多に積み上げられており、礼拝中は、しばしば個人ペースの祈りになり、みな一心不乱に身体を揺らしながら小声で祈りを唱え続ける。ユダヤ教の祈りは身体的で動的である。そして、安息日の礼拝の場合はトーラー朗読のためにトーラーの巻物が出てくると、シェマア・イスラエル(本書五二頁参照)の大合唱となり、女性席からは巻物に触れようと皆の手が伸び、興奮は頂点を迎える……こうした喧噪の礼拝に参列していると、しばしばスィドールの進行から脱落してしまう。
評者も研究や授業のために手持ちのスィドールから部分的に私訳を試みたこともあるが、あまりの量の膨大さに眩暈を感じてきた。今回、吉見氏の労により、祈りの大部分を吟味された邦訳で理解することができるのは大変有益である。そして、吉見氏の邦訳によっても、祈りの膨大な量にやはり圧倒される。祈りの中でも中心となるシェマア・イスラエル、立禱(アミダー)(五五頁以降)も、訳出すると相当な分量になる。礼拝の基本型となる「朝の祈り」は、説明も含めるが本書で四〇頁以上に及ぶ。これだけの量の祈りを唱えるユダヤ教徒のエネルギーに驚嘆する。
祈りの内容も興味深い。評者はユダヤ教文献の中でも細かい法規議論や時に神の言葉への単刀直入な疑問も辞さない聖書解釈を中心に学んでいるが、それらとは対極の言葉が祈りの世界には広がる。神への一途な賛美、崇高な愛、自己の罪深さの吐露、懺悔、赦しの嘆願、全幅の神への信頼の念に溢れている。だが、この一途な神への賛美の祈りは、先述のように、個々のペースで、がやがやとした喧噪の中で唱えられるものだ。その内容の一途さとそれがばらばらの声の集成として伝えられるというコントラストが印象的である。加えて、スィドールには、法規議論(九七頁以降)、中世思想家マイモニデスの言説(四〇頁)、ピユート(宗教詩)(六四頁)も様々なジャンルが取り込まれ、多様なユダヤ共同体の事情を反映した多彩なスィドールが存在している。ユダヤ教の一であり多である本質を感じる。
吉見氏の手元にある一六種類にも及ぶというスィドールの紹介(評者の手元のものはまた別バージョンのようだ)、またキリスト教やイスラームの祈りとの比較も興味深いところである。新約聖書の中でイエスが推奨した祈りの背景を知ることにもなろう。また、現代の価値観に合わない表現も多々あるユダヤ教の祈りの今後が気になるところであるが、今はただ、祈りの中で何度も祈願される「争い」「苦難」からの贖いと世界の平安が来たらんことを祈るばかりである。
勝又悦子
かつまた・えつこ=同志社大学神学部教授